抄録
【はじめに、目的】 床へのトランスファーは、脊髄損傷患者が日本家屋で生活するにあたり、床への移乗や転倒時に車椅子へ戻る際の動作として重要である。上肢筋力に著明な低下を認めない対麻痺者でも上記動作に困難な症例が存在する。今回、和式生活に特有と思われる2つの移乗動作パターンを筋電図学的解析から、効率的な床への移乗動作方法を検討する。【方法】 対象は30歳代男性の対麻痺者1名とした。機能レベルはTh10以下の完全麻痺で、下肢の痙性があり、上肢に筋力低下がない者とした。方法は、34cmのプラットホームを使用し、プラットホームの端から11cm(坐骨)、26cm(仙骨)まで到達した時点を1回とした。なお、床との隙間に三角マットを入れて背中の当たりを保護し安全性を考慮した。運動課題は、1つ目には両手掌を台に接地し、膝関節伸展で床とプラットホームの往復とし、2つ目には足底へ滑り止めマットを敷き、左手掌は台に接地、右手掌は床に接地し、膝関節屈曲しながら左方へ床とプラットホームの往復といった2つの課題を実施した。課題中、表面筋電図解析の計測はNoraxon社製ノラクソン筋電計シリーズ(マイオイオDTS EM-801)を用い、導出筋を両側大胸筋・三角筋(前部繊維)・上腕二頭筋・上腕三頭筋(外側頭)とし、双曲誘導法にて電極を貼付した。2つの移乗動作パターンの周波数解析から経時的変化の中で、各筋出力の減衰率から筋疲労度がどのように変化していくかを比較検証した。また、計測前後で主観的運動強度 Ratings of perceived exertion(以下RPE)を問診した。【倫理的配慮、説明と同意】 対象者には本研究の趣旨を説明し同意を得た。また、本研究はヘルシンキ宣言に沿って計画され、帝京科学大学の倫理審査委員会の審査にて承認され実施された。【結果】 1つ目の運動課題の膝伸展位では、開始前のRPEは9、5回実施後のRPEは19。特に減衰した傾向がみられる筋は、左三角筋(-20.0%)と左上腕二頭筋(最大-37.3%)、右上腕二頭筋(-37.3%)であった。その代わりに代償的に筋活動量が増えた筋は左上腕三頭筋(15.2%)、右上腕三頭筋(5.49%)であった。2つ目の運動課題の膝屈曲位では、開始前のRPEは9、5回実施後のRPEは13。特に減衰した傾向がみられる筋は左大胸筋(-12.7%)、右大胸筋(-15.3%)と右上腕二頭筋(-16.2%)であった。その代わりに代償的に筋活動量が増えた筋は左上腕二頭筋(2.55%)、右上腕二頭筋(2.66%)と両上腕三頭筋(6.6%)であった。【考察】 脊髄損傷者の床へのトランスファー動作は、膝伸展位にて行う方法を多く採用することが臨床場面で経験する。今回の結果より、膝屈曲位では膝伸展位と比較して、筋疲労度は少なく、より効率的に動作が遂行されていた。膝屈曲位での動作が効率的に行えた要因としては、足底が接地位置から移動しないことや移動時に背中がプラットホームへ擦れる事が少ないことによる摩擦抵抗が少ないこと、膝関節を屈曲していくことでレバーアームが短くなるとともに移動距離が少ないことが運動効率を向上する理由として考えられた。また、両下肢には随意的な収縮がみられないが、両足関節最大可動域の背屈位で固定性を強めることで、足底に全体重を荷重することができ、床反力の反作用を利用しやすくなり、筋出力を効率よく運動に変換し、膝伸展位と比べて、肩甲骨内転・下方回旋、肩関節伸展・内旋の可動域を最大域に近い状態で行わないため、効率的な筋張力を生じやすく、筋出力が発揮しやすいとも考えられた。【理学療法学研究としての意義】 本研究では、比較検証を行ったシングルケーススタディであるが、膝屈曲位の方が効率的な動作が行えていることが運動力学的に明らかになった。また、運動の反復による筋疲労の度合いを経時的に変化を追えたことで、運動療法を実施する際に代償活動にならないための適切な運動強度と頻度を決める上での一因となると考えられる。今後さらに3次元動作解析を用いることで、床へトランスファーする従重力活動とプラットホームへ戻る抗重力活動の運動様式の違いからくる、求心性収縮と遠心性収縮での疲労度の経時的変化も検討していきたい。