抄録
【はじめに、目的】 高齢者の要介護の原因として転倒は第三位であり,転倒の原因は「バランスを崩した」「滑った」などが転倒全体の約3割を占めている.転倒原因の1つであるスリップに関する先行研究は数多く報告されており,バランスを損失した後の立ち直り反応は,下肢筋活動に影響されるといわれている.スリップ時の下肢筋活動においては,ハムストリングスと腓腹筋が重要な役割を果たすと言われている.しかし,スリップの長さや速度,またスリップ後のバランス回復反応に影響する要因として,筋反応時間や足趾把持力,運動習慣の有無といった観点からは十分に調査されていない.本研究目的は,随意ステップ後に誘発されたスリップの大きさ,およびスリップ後のバランス回復反応に影響する因子を明らかにすることとした.【方法】 対象は下肢関節疾患の既往のない健常成人33名(男性15名,女性18名,平均年齢21.6±0.9歳)とした.スリップは,フォース圧分布計測システム(FDM,Zebris社製)の上に潤滑剤を塗布したアクリル板を二枚重ねて滑りやすい床面を作成し,被験者は静止立位の状態から裸足でその上を随意ステップすることで誘発した.被験者によるステップ条件の統一を行うため,ステップ距離は棘果長の50%,ステップ速度はメトロノームにて60テンポ/分に合わせることにより調整し,ステップ時の荷重量は体重の50%以上となるように指示した.測定項目はスリップ速度・距離,スリップ後3秒間の重心動揺面積,総軌跡長,前後・左右の95%COP変位距離,最大足趾把持力,ハムストリングスおよび腓腹筋の筋反応時間を測定した.筋反応時間の測定には筋電計(マイオシステム,Noraxon社製)を用い,ビープ音の直後に筋収縮を行わせるように指示し,ビープ音の開始から活動電位波形が安静時波形の2標準偏差の大きさに達した時点までの時間(運動前反応時間)を記録した.足趾把持力は足指握力測定機 (TAKEI社製)を用いて3回測定し最大値を記録した.また,問診により現在の運動習慣を調査し,習慣的運動を週1回以上行っている者を運動習慣ありと評価した.データ解析は測定項目間の関係を相関分析(ピアソンの積率相関係数)にて解析し,運動習慣の有無による測定値間の比較にはStudentのt検定を用いて解析した.統計ソフトにはエクセル統計2010(SSRI)を用い,有意水準は5%未満とした.【倫理的配慮、説明と同意】 研究への参加に際して,全ての被験者に研究手法についての十分な説明を口頭で行い,同意を得た.【結果】 相関分析の結果,腓腹筋の筋反応時間は,重心動揺面積(r=0.47,p<0.05),95%COP前後変位距離(r=0.52,p<0.01)と有意な相関を示した.一方,ハムストリングスの筋反応時間および足趾把持力はスリップ距離やスリップ後の重心動揺面積など何れの測定項目とも有意な相関を認めなかった.運動習慣の有無により被験者を2群に分けた場合,腓腹筋の筋反応時間は運動習慣のある群が無い群に比較して有意に短かった(運動習慣あり:平均288.5±60.0ミリ秒,運動習慣なし:平均322.6±66.9ミリ秒,p<0.05).またスリップ後の重心動揺面積も運動習慣のある群で有意に小さかった(運動習慣あり:平均242.7±87.5cm2,運動習慣なし:平均249.1±113.6cm2,p<0.05).【考察】 本研究の結果,腓腹筋の筋反応時間と重心動揺面積,95%COP前後変位距離に有意な相関が認められ,腓腹筋の筋反応時間が遅い被験者ほどスリップ後の重心動揺が大きくなることが示唆された.しかし,ハムストリングスの筋反応時間とスリップ後の重心動揺は有意な相関が認められなかった.このことから,スリップ後のバランス回復反応を評価するにはハムストリングスよりも腓腹筋の筋反応時間が重要であると考えられた.しかし先行研究ではスリップ後のバランス回復においては腓腹筋よりもハムストリングスの役割が重要視されている.これに関しては,本研究で測定した筋反応時間が実際のスリップ時の筋反応時間ではなかったことが一因ではないかと考えられた.また,良好な足趾把持力は動的バランスと関連しており,バランス能力を向上させるトレーニングなどに取り入れられている.しかし本研究では,足趾把持力とスリップ距離や重心動揺との間に有意な相関が認められなかったことから,足趾把持力の強化はスリップによる転倒の減少には有効でない可能性が考えられた.【理学療法学研究としての意義】 本研究結果より,スリップによる転倒を防ぐには腓腹筋の筋反応性を向上させるトレーニングの必要性が示唆され,高齢者の転倒予防のための新たな運動プログラム作成に有用なデータとなる可能性がある.