抄録
【目的】 立位動揺の制御において視覚の影響が大きいことはよく知られている。視覚指標距離が重心動揺に影響を与えることについては健常者を対象として多くの報告がされており、視覚指標が近い方が遠い場合よりも重心動揺は減少する。臨床上、脳卒中片麻痺患者が立位や歩行時に前方よりも下方を向くことは、多く観察される。視覚指標までの距離を考えた場合、前方の遠い点を見るよりも、下方を見ることで視覚指標までの距離は近くなると考えられる。我々は、脳卒中患者は視覚指標までの距離を近くすることで、立位の定位を得ているのではないかと推察した。本研究では、1.脳卒中患者の重心動揺は前方注視において健常者と同様に視覚指標の遠近の影響を受ける、2.脳卒中患者において下方注視では前方注視と比較して重心動揺が小さくなるかどうかを明らかとする。【方法】 脳卒中患者15名(脳卒中群:65.7±10.1歳)と、健常高齢者14名(健常群:65.6±3.1)を対象とした。重心動揺計を用いて、サンプリング周波数を50Hz、計測時間を30秒間として計測を行った。重心動揺の指標として、前後方向動揺のRoot Mean Square(RMS)値(A-P RMS)と、左右方向のRMS値(M-L RMS)を用いた。測定肢位は裸足の閉脚立位、上肢は体側下垂位とした。測定条件は、600cm前方の注視点を見る(600cm条件)、150cm前方の注視点を見る(150cm条件)、下方を見る(下方条件)の3条件とした。 各群内において、600cmと150cm条件、600cmと下方条件、150cmと下方条件の比較を行った。統計にはWilcoxon符号順位検定を用い、有意水準5%未満とし、Benjamini-Hochberg補正を用いた。また、効果量rも同時に算出した。【倫理】 本研究は測定が行われた施設の倫理委員会の承認を得ており、対象者には書面による本研究の説明と参加の同意を得た。【結果】 両群とも、150cm条件では600cm条件と比較してM-L RMSは減少した(脳卒中:p < .001; r = .66, 健常:p = .024, r = .43)。脳卒中群では、下方条件で600cm条件よりもA-PおよびM-L RMSは減少した(それぞれp < .001; r = .66, p = .001; r = .59)。また、下方条件では150cm条件よりもA-P RMSが減少した(p = .004, r = .53)。一方、健常群では下方条件で600cm条件よりもM-L RMSが増大した(p = .011, r = .48)。また、下方条件では150cm条件よりもA-PおよびM-L RMSが増大した(それぞれp = .007; r = .51, p = .001; r = .65)。【考察】 結果より、脳卒中患者でも健常者と同様に、重心動揺は視覚指標が近い場合には重心動揺が小さくなることが明らかとなった。さらに効果量をみると、この影響は脳卒中群で大きいことが分かる。このことから、脳卒中患者では重心動揺の制御において視覚指標距離の影響を強く受けることが示唆された。一方、下方条件と600cm条件および150cm条件の比較においては、脳卒中群では動揺が減少し、健常群では増大している。先行研究では、健常者では頭頸部を屈曲させることで重心動揺は増大することが報告されている。本研究の健常群の結果は、先行研究と一致する。視覚距離の観点から下方条件と600cm条件を考えた場合、下方条件の方が視覚指標距離は近くなる。脳卒中群では前述のように、視覚指標距離の影響を強く受けることから、頭頸部屈曲による重心動揺増大よりも、視覚指標距離の影響が強く表れた結果、重心動揺が減少する結果となったのではないかと考える。視覚指標距離がほぼ同じとみなせる下方条件と150cm条件では、脳卒中で前後方向のみ重視動揺が減少した。150cm条件では、前後方向の身体の動揺は網膜上で遠近の情報として知覚される。一方下方注視では、これが網膜上では上下方向の変位となるため知覚されやすくなると考える。脳卒中における下方条件での前後方向の動揺の減少は、このことが影響したと考える。【理学療法学研究としての意義】 本研究では、脳卒中患者が立位で下方を向くことが重心動揺に与える影響について調べた。結果は、脳卒中では視覚距離の効果によって立位の定位を得ている可能性を示唆するものである。本研究は基礎研究であり、この結果から単純に「視覚指標距離が近ければ前方を見ることができる」ことを意味しない。また視覚遮断を行っていないことから、下肢固有感覚を視覚代償している可能性も否定できない。しかし、脳卒中患者がなぜ下方を向く傾向があるのかを理解するための手がかりを与えるものと考える。