日本ハンセン病学会雑誌
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原著
楽泉園自由地区の形成に至る歴史的背景の特異性
(旧湯之澤区と楽泉園自由地区の関係)
北原 誠
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2011 年 80 巻 3 号 p. 249-259

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抄録

  群馬県の草津温泉には、明治以前より温泉の効能を慕ってハンセン病患者も湯治に訪れていた。明治2年(1869年)の大火に見舞われて壊滅的な打撃を受けた宿屋の主人達は、早期の復興を目指して諸病の湯治を目的とした誘客に力を入れ、温泉の効能を大々的に宣伝したため、多くのハンセン病患者が現在の湯畑周辺に長期滞在するようになり、復興のための入浴客誘致と相まって初期のハンセン病患者の集落が自然形成されていった。
  やがて草津温泉が全国的に知られるようになると一般湯治客も増加し、湯畑周辺が手狭になって来たと考えた町当局と宿屋の主人達はハンセン病患者を湯之澤地区に移転させて集落を形成させようと画策した。ハンセン病患者の代表らと交渉の末、明治20年(1887年)にハンセン病患者の湯治区域として湯之澤部落が創られた。後に湯之澤部落は草津町の正式な行政区(湯之澤区)となって地方自治体が正式に存在を認めたハンセン病患者の居住区として発展し、定住者の増加に伴って職業も多岐に亘り救癩活動の拠点も出来、永遠にハンセン病患者の自由療養地区として定着するかに見えた。
  しかし、昭和6年(1931年)の癩予防法制定で事態は一変し、昭和11年(1936年)から全国的に広がった無癩県運動の流れに押される形で湯之澤区と群馬県が集団移転に関して協議した結果、昭和16年(1941年)ついに集団移転に合意、町から更に離れた山中に建設された国立療養所栗生楽泉園の中に区画された自由地区が受け皿となり翌昭和17年(1942年)までに全ての住民が立ち退き、人口八百余名を数えた我が国唯一の合法的なハンセン病患者の集落は消滅した。

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