抄録
本発表では、近世から20世紀前半までの稲の干し方の分布と、近代に入っても地干し法が掛け干し法と並用された理由について、発表者の解釈を述べる。 近世は農書類の記述から稲の干し方を拾い、17世紀と18世紀と1801-68年の3つの時期を設定して、分布図を描いた。19世紀後半は『農談会日誌』と『稲田耕作慣習法』から1880年頃の干し方の分布図を、20世紀前半は『日本の民俗分布地図集成』から1910-20年頃の干し方の分布図を描いた。 ひとつの国で近世の間の動きを追える例はほとんどないが、全体としては、地干し法から地干し法と掛け干し法が並存する姿に変わっていった。ただし、農書類は進んだ技術を記述する場合が多いので、農書類が掛け干し法を奨励する場合は、農書類が言及する地域に掛け干し法が普及し始めていたと解釈すれば、実際に近い姿が描ける。1880年頃は19世紀前半よりもさらに掛け干し法が普及し、地干し法と並用された。1910-20年頃も地干し法がまだ広くおこなわれていた。 地干し法は近世には広くおこなわれ、近代に入っても掛け干し法と並用された。その理由は、湿田でも稲束を干す前に水を抜けば地干しはできたし、掛け干し法は労力がかかったからである。20世紀前半までの稲は現在の稲よりも背丈が高かったので、掛け干し法では稲束の穂先が田面につかないように、稲架の横木を高い位置に設定せねばならなかった。また、20世紀初頭頃までの日本人は現代人よりも10cmほど背丈が低かったので、稲架の横木の位置は現代人の目線よりも30cm以上高くなり、稲束を持ち上げる姿勢で稲架の横木に掛ける作業は、多くの労力がかかった。さらに、掛け干し法は稲架の設置と取り外しに多くの労力がかかる。他方、地干し法は背丈が低い人でも背丈が高い稲束を楽に扱えるし、稲架の設置と取り外しの手間がいらない合理的な稲束の干し方であった。