抄録
弓削島庄に関しては歴史家清水三男氏以来の長い研究史がある。最近の研究成果に立脚しつつ以下のような諸点を報告した。 報告者は東寺における供僧らの評定制度を視野に入れながら従来の通説に再検討を加えた。詳細は報告に譲るが先学らの指摘する乾元2年の和与状と地頭・領家間の協議云々といった問題をいったん保留し、現場に精通する預所栄實とそうとは言えなかった東寺の供僧らの意見調整の有り様が看守できると指摘。つまり、軍事的手段を伴う紛争の回避には地頭・領家が領域的に棲み分ける原案(原筆部分)がすぐれているが、それを破棄し経済的得失により傾いた判断から、経済的リスク分散策が修正案(追筆)を通じて打ち出され、両者の間で領家側には苦慮のあとが伺える。これは従来からの報告者の見解(人文地理44-5、49頁)を補強するもの。次にこの差図のテーマたる網場の設定に関して東寺側の地政学的思惑(備後国沼隈郡との国境=領海問題で「辺屋路小島」を伊予国弓削島の属領とする)をベースとした地頭・領家間での漁業権配分と言う捉え方を提示した。『弓削島庄差図』は中世の海の国堺を表現した稀有の地図史料といえる。そういうもろもろのことから弓削島差図はソシオ・カルトロジーの面からはどのように評価できる中世絵図なのかを論じた。参考文献小川 都弘「中世荘園絵図のソシオ・カルトロジー」、人文地理44-5。
学会発表の関連資料は平成16年11月1_から_30日までの間以下のサイト上に掲示する。パスワードはgeo(小文字・半角)
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