抄録
本研究では定期市の変遷を把握する手段として村明細帳に注目する。17世紀末期から各地で作成され始める村明細帳には、自村での市開催や周辺市町の利用状況が記されることがある。そして、これらの記事をもとに村明細帳から近世の定期市が分析できる可能性は戦前から指摘されてきた。だが、当時は史料整理が進んでおらず、村明細帳を広範に収集することは困難だった。だが、武蔵国に関しては『武蔵国村明細帳集成』が1977年に刊行され、近年では村明細帳だけで資料集を刊行する自治体も増えてきた。村明細帳を広範に収集できる条件が整ってきたのである。発表者はこの点に注目し、村明細帳を広域的に収集して定期市に関する項目を分析した。本発表ではそこから得られた知見を報告したい。なお、本発表の対象地域は武蔵国のうち多摩郡以北(以下、北武蔵)とする。江戸府内やその南方では定期市場網の展開が確認できず、官撰地誌を用いた先行研究でも検討の対象外とされているからである。
村明細帳は、江戸時代の領主が村柄を把握するために村々から提出させた帳簿である。村明細帳における定期市関係の記事は、主に自村市場と近隣市場の2種類に整理できる。自村市場の記事は、その村での定期市開催の有無を記したもので、定期市が休止・廃絶している場合はその旨が記される。また、近隣市場の記事は、その村の近隣にある定期市について記し、当該村からの距離が合わせて記載されることが多い。ただし、これらは必ず記される訳ではなく、村明細帳によって、自村市場・近隣市場の両方が記載されるもの、片方だけ記されるものなど区々である。これは、村明細帳はその時々の徴収目的によって記載内容は一定でなかったためだろう。さて、発表者は現在までに、自治体史や埼玉県立文書館での調査から、近世北武蔵の村明細帳624点(310村)を収集した。これは、天保郷帳の村数(2611)の12%に相当する。
以下では、村明細帳における自村市場・近隣市場の記事のそれぞれに注目して検討を進めたい。まず、自村市場の記事は、245点(120村)の村明細帳(全体の約4割)で確認できた。自村市場の記事は、市町が提出した村明細帳とそれ以外とで記載内容が大きく異なる。すなわち、市町の明細帳には定期市の開催とともに、その市日も併せて記されることが多い。それに対し、市町以外の一般農村では、「当村市場ニ而無之候」など定期市が存在しない旨が記されるのみである。当該村がその時点で市町でないことが確認できるのだが、一般農村が市町でないことは、言わば当然のことであり、さして重要な情報とは言い難い。従って、自村市場の記事は、市町の明細帳において特に注目される。市町が提出した明細帳は61点あり、うち51点で自村市場の記事が確認できる。市町の明細帳は、市場争論で定期市開催の証拠として採用された例が確認でき、また、市町として重要な事柄であることからも、その情報はかなり正確に記されたと思われる。記事の内容として最も多いのは市日に関する記載で、ある時期の市日を確認できることは、市場網の変遷を把握する際に意義が大きい。また、休止中の定期市や、以前に定期市が存在した古市場の記事は、個々の定期市の消長を示す記録として重要である。また、官撰地誌には表れない定期市の存在が、村明細帳から明らかになる場合がある。
近隣市場の記事は、172点(117村)の村明細帳(全体の約3割)で確認できた。そこでは、近隣市町名と提出村からの距離が記されることが多く、明細帳を提出した村々がどの定期市を利用したのかを示すデータとして価値が高い。『新編武蔵国風土記稿』にはこうした記事はなく、江戸時代の武蔵国における定期市の商圏は、今まで不明な点が多かった。これを鑑みると、個々の定期市の商圏について、江戸時代の同時代データを提供する村明細帳の価値は大きい。近隣市場のデータは西部山麓地帯や東部地域で多く確認でき、熊谷・川越・秩父大宮郷など近代に高い中心性を呈する町は、近世においても相対的に広い商圏を有した。なお、官撰地誌に表れない定期市や、個々の定期市の消長が読み取れる点は、自村市場の記事と同様である。近隣市場としてあがる市町は、古市場と明記される例が確認できず、基本的にその時点で存在したとみなされる。だが、個々の市町の厳密な消長の時期について、近隣市場の記事を証拠として画定するには留保が必要だろう。村明細帳は、先年の提出分をそのまま写すことも多く、近隣市場の細かい動向を逐一反映するとは限らないからである。なお、31点の村明細帳において、近隣市場での取引商品に関する記事が確認でき、西部山麓地帯では織物、平野部では穀物があがることが多い。こうした定期市の取引品目に関する地域的特徴は、民俗調査などで明らかにされている近代のあり方と共通点が大きい。