2021 年 69 巻 3 号 p. 1112-1117
五護陀羅尼Pañcarakṣā(PR)のうち『大寒林陀羅尼』Mahāśītavatī(ŚV)の経題を持つチベット語訳の内容は,サンスクリット・テキストや漢訳に説かれている内容と一致しないことが先行研究で指摘されている.サンスクリット・テキストでは『大寒林(陀羅尼)』Mahāśītavatī,漢訳では『大寒林聖難拏陀羅尼経』とある一方,チベット語訳では『聖持大杖陀羅尼』’Phags pa be con chen po zhes bya ba’i gzungsという名で収録されている.テキストによって経題に複数のバリエーションがあるものの,これら3つの経典の内容はおおむね共通しており,いずれもŚVと見なされている(以下,ŚV-A本と称する).一方で,チベット語訳系統においてŚVの名を持つ経典は『大寒林経』bSil ba’i tshal chen po’i mdoであり,ŚV-A本の内容とは大きく異なる(以下,ŚV-B本と称する).そのため,2種のPRの系統を区別するうえでŚVは重要な経典の1つであるといえる.
本論文ではPRの構成や経題に見られる問題点,カルマヴァジュラKarmavajraによって著されたŚVの注釈書『明呪大妃大寒林経十萬註』Mahāśītavatīvidyārājñī-sūtra-śatasahasraṭīkā-nāma(ŚVŚS)を取り上げた.前述のとおり,ŚVと見なされる経典は2種の存在が確認されているものの,ŚVŚSでは両経典が併せて注釈されていることが明らかになった.
チベット大蔵経において別名で収録されているŚV-A本がŚVSSに含まれた経緯については未だ明確ではないが,当時ŚVと見なされていた両テキストを注釈者が意図的に合体させて注釈を行った,もしくは,注釈者がŚV-A本とŚV-B本の内容が元々一つとなっているテキストを使用したことが推察される.後者の場合,これまで確認されているŚV-A本とŚV-B本以外にも第3のŚV文献が存在したことになるが,その可能性については今後の写本研究を進める上で検討していきたい.