印度學佛教學研究
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全体(avayavin)の重さに関するプラジュニャーカラグプタの議論
横山 啓人
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2024 年 72 巻 3 号 p. 1085-1089

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抄録

 ニヤーヤ学派やヴァイシェーシカ学派は,全体(avayavin)は部分(avayava)とは別の実体(dravya)だと考える.一方,仏教徒はこれを認めず,全体は単なる部分の集まりに他ならないとして,様々な観点から批判を行う.その一つが,全体の重さ(gurutva)に対する批判である.ディグナーガは「『全体は諸部分とは別のものである』ということはない.天秤の傾きの差異が把握されないからである」と論じる.すなわち,もし全体が実在するならば,例えば多数の糸を量るときに比べてそれらで織った布を量るときでは,新たに造られた全体の分だけ天秤の傾きに差が生じるはずである.しかし,実際にはそうしたことはない.ディグナーガがこの基本的な指摘を行うのみであるのに対して,ダルマキールティは全体の重さについてPramāṇavārttika第4章において詳論する.そして同書の注釈者たちもそれを踏襲するが,特にプラジュニャーカラグプタはPramāṇavārttikālaṅkāra(PVA)において彼独自の議論を付加している.本稿では彼の議論に焦点を当てて検討する.

 全体の重さをめぐるプラジュニャーカラグプタの議論は,対論者の「全体の重さは軽すぎるため量れない」という見解と,「最後の全体の重さ以外は消滅する」という見解に対する批判に大別される.彼は,前者の対論者説に対しては,「気づかれないような重さが存在することを認める理由はない」という観点から批判を行う.そして,その批判はウッディヨータカラのNyāyavārttika(NV)などに確認される見解へ向けられたものであると考えられる.また,後者の見解に対しては,それが原子の消滅という帰結を生じ,対論者自身の学説と矛盾するという点などをプラジュニャーカラグプタは指摘する.NVにおいてウッディヨータカラは全体の重さについて自身が採用しない二つの異説を紹介しており,そのうちの一つは,重要な相違点はあるものの,PVAにおける後者の見解と発想の点では類似性が認められる.

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