2026 年 8 巻 No.1 号 p. 1-22
人はなぜ、国家へと内向きになり、他者との会話の回路を閉じ、寛容性を失ってしまうのか。それは、私たちが馴染んでいる近代国民国家が資本増殖のアナロジーとしての人間観 、つまり「平等」で国家という「父」への同一化を通して、自己を形成する国民によって構成され、私たち自身が国家への同一化を自らに課しているからである。しかし本来 、私たちはそのような自己として存在しているのだろうか。本論では、この自己のあり方を、その固有性を生み出す時間と他者とのかかわりのあり方から導きだし、国家への同一化ではなく、国家を共存と平和への装置として使いこなす個人の立ち上げの仮説的な論理構築を試みる。その仮説とは、「私たちはつねに、あらかじめ、すでに赦しあっている」である。