日本看護科学会誌
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原著
他人みたいなからだを生きる
―中枢神経障害患者のしびれている身体の経験
坂井 志織
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2017 年 37 巻 p. 132-140

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Abstract

目的:しびれている身体がどのように経験されているのかを,“他人みたい”と表現されることに着目し記述的に開示する.

方法:Merleau-Pontyの身体論を思想的背景とした現象学的手法を用い,中枢神経障害によるしびれを経験していた4名から得た参加観察記録を分析,記述した.

結果:他人みたいという違和感を含む経験は,しびれにより生じるからだの手応えの変容,日々の行為可能性が保証されない不安定さ,自ずと動いていた自分のからだではなく,自分のからだを自分で指示するという,指示し動かすからだでの日常生活から成っていた.

結論:しびれている身体は,“私という身体”としてここに居るという,身体として感じていた確かさが揺らぐ経験であった.生活援助を通して患者の身体経験に関心を寄せ身体について共に考えることで,患者にしかわからないとされていたしびれを,共有可能な次元に近づける可能性があることが示唆された.

Ⅰ. はじめに

1. 研究背景と意義

しびれを呈する疾患は中枢神経障害によるものから,糖尿病やがん化学療法による末梢神経障害など多岐に渡り,原疾患やその病態も多様である.他方で,効果的な治療法がない・周囲の理解が得られにくいなど,患者がおかれている困難さには共通点も多い.様々な臨床の場でしびれを訴える患者へのかかわりの難しさや,ケアの必要性が唱えられて(赤澤ら,2001Donovan, 2009梅津・武田,2011)久しいが,十分なケアがなされているとは言い難い.その一因として,研究数の不足が挙げられる.しびれを呈する原疾患の多様さや,原疾患に関する研究数の多さと比すると,しびれを主題的に扱った研究は極めて少ない.しびれは,その症状や重症度を検査結果として画像化したり,麻痺のように尺度を用いて数値化することに難しさがある.そのため,各疾患のしびれの発症率は,経験的には高いことが知られているが,統計的資料はなく実態把握にも困難さが伴う.このような特徴は,数値を介する量的研究で扱うことを難しくさせている一因でもある.さらに,しびれは生命を脅かす事象に直結しないと見做されがちであり(堀口ら,2012),研究として取り組む意義や重要性が見逃されてきたと言える.しびれのケアを充実させるためには,まず研究として取り組み知見を積み重ねていく必要がある.そこで,どのような方向性の研究が必要とされているのかを,先行研究を踏まえながら以下で検討していく.

まず第一に,しびれを訴える患者の経験について,理解を促す一助となる研究が必要である.患者経験に着目した研究は少なく(坂井,2008),患者の経験を理解する視点が十分とは言い難い.また,先行研究の多くがしびれは患者の主観的症状であると定義づけ(赤澤ら,2001登喜ら,2005Donovan, 2009梅津・武田,2011堀口ら,2012;ほか)研究がなされていた.このような前提に立つことは,客観を共有可能なこと,その対極の主観を“個人に閉じられた私秘的な経験”であり,他者にはわかりづらいものだと無自覚に見做してしまうことにつながる.そのためしびれを主観的症状とする見方で研究を進めると,ケアの第一義である患者を理解するという事を飛び越え,その理解の先にあるはずの症状緩和など問題解決へと一息に向かわせてしまう.確かに患者からはしびれをどうにかしてほしいという訴えが聞かれ,対処法を求めているかのように見える.他方で先行研究においては,患者らが提供された対処法を鵜呑みにしていない様子もみられた(登喜ら,2005土田・土屋,2012).個々の経験が個別性に富むため,具体的な対処法がかえって自らに適応しづらいことが推察される.これは,対処法を提供するという方向性だけでは,必ずしも十分ではないことを示している.Thomas & Pollio(2002/2006)は,問題解決型志向でなされている実践には,“看護する”ということに対する深い理解が欠けているとし,「長きにわたって私たちは患者の訴えを解決すべき問題であると捉えてしまっていたのではないだろうか.」(p. 17)と異論を呈する.看護研究として必要とされているのは,対処法を提供することと併せて,看護師が患者をどのように理解するのかということであり,そのための視点を提示することだと言える.

その鍵となるのが,経験の素地とも言える“しびれている身体”の理解である.先行研究では症状の感じ方や,日常生活での困難さに焦点が当たっており(登喜ら,2005坂井,2008),身体に着目した検討は見当たらない.身体経験に着目した研究のひとつとして,片麻痺患者を対象とした研究がある(山内,2007).麻痺のある患者は,自らの手足を「これ」「自分のものではない」と語っており,自分と切り離した表現をしていた.一方,しびれの患者は「人様の手足みたい」(坂井,2008)と表現しており,後者は身体であることが或る意味保たれていながらも,違和感を含んだ表現となっていた.この,身体の形容のされ方には,しびれている身体特有の経験に迫る糸口があると考えられる.本稿では,このような,“患者らが,どのように身体を経験しているのか”を理解するための視点を示すことを意図している.

第二に,しびれの特徴に即した手法による研究の蓄積が必要である.先行研究では,GTA/M-GTAや(登喜ら,2005土田・土屋,2012),質問紙調査(登喜ら,2007)がなされていた.しびれは変幻性があると言われるように,状況と複雑に絡み合った現れを呈する.加えて,微妙な感覚的なものを言語化する難しさも含んでいる.文脈から切り離しカテゴリー化しながら理論形成を目指すGTAや,言葉が数値に置き換えられる質問紙調査ではしびれをとらえることが難しいと考えられる.池川(1991)は,自然科学的な研究方法に傾倒していく看護に警鐘をならし,「人間の個別性や特殊性を捨象した後に残った一般性のなかに,看護の本当の意味での科学性や本質があるとはどうしても考えられない.」(p. 24)と,探究する事象により方法が導かれるべきであると述べている.

以上のことから,患者が経験しているしびれに接近していくためには,個別の文脈を切り離さず,事象の現れにそって分析を行う必要があると言える.そこで要請されるのが,現象学的な方法的態度であり分析の視点の取り方である.現象学的研究では,あらかじめ決まった見方に沿って解釈したり,複数参加者の経験から個別の文脈を切り離し,類型化や理論化を目指したりはしない.むしろ,事象が示すとおりに,事象がどのような意味を伴い,どのように経験されているのかを探究する.本研究でいうならば,しびれを予め主観―客観と分ける見方を一旦棚上げし,その手前の経験そのものに着目することになる.その探究では個別事例の内容ではなく,事象がどのように成り立っているのかを“記述する”(仏décrire:Merleau-Ponty, 1945/1967, p. 3)ことが目指される.成り立ちとは,意味がいかに生起してくるのかを現れの構造ごと捉えることである(鷲田,1997).本研究においては,患者が“しびれをどのように経験しているか”を,しびれという症状だけを切り取り論じるのではなく,経験の場としての身体を基点とし,そこで生起している関係ごと記述することである.しびれの現れは多様であり,固定したモデルの提示はかえってその本質を捉え損ねてしまう.多様な経験の素地であるしびれている身体を示すことは,患者理解を可能にする視点の取り方を提示することであり,しびれのケアを拓く契機になる可能性がある.そこで,本稿では しびれている身体がどのように経験されているのかを,そのひとつの視点となる“他人みたい”と表現される事象に着目し,記述的に開示することを目的とする.

Ⅱ. 研究方法

1. 研究デザインと思想的背景

本研究は,しびれている身体の在り方を探究することに主眼を置いている.よって,身体の問題を全面的に展開したMerleau-Pontyの現象学を思想的背景としている.Merleau-Ponty(1945/1967)は,わたしたちの身体を,解剖学的に説明される物体としての“人体”ではなく,“生きられた身体(Lived Body)”として見ることを促す.〈身体〉とは世界が現れる場であるとし,「私の身体は世界の軸である」「私は自分の身体を手段として世界を意識する」(p. 148)としている.この立場に依ると,しびれている身体や,自らのからだを含めた周囲の物がどのように現れているのかを,病態生理学的な因果関係ではなく,経験の場である〈身体〉のほうから探究していくことが可能になる.以下では,Merleau-Pontyの身体を思想的背景とするものを〈身体〉と表記し,それ以外はからだとした.考察は文献に関連する箇所はそれに従い,身体と表記した箇所もある.

2. 具体的な方法と手順

1) 調査概要とデータ収集方法

研究協力施設は,関東圏にある回復期リハビリテーション病院(約200床)1施設である.データ収集は,平成25年6月~平成27年1月の期間において,週1~4回の頻度で実施した.研究参加者は,入院中の患者で認知機能に障害がなく,中枢神経障害によるしびれを経験していることを条件とした.研究参加者は4名であり,年齢・疾患・期間は表1を参照されたい.

表1 研究参加者概要,及び調査概要
年齢 性別 病名 フィールドワーク フィールドノーツ
回数 期間 総時間 総頁 総文字数
A 40代 脊髄損傷 30回 7ヶ月 3,635分 487頁 508,632文字
B 70代 脊髄損傷 8回 2ヶ月 1,500分 123頁 142,949文字
C 50代 脳幹出血 20回 7ヶ月 4,420分 377頁 426,938文字
D 80代 脊髄損傷 7回 1ヶ月半 1,475分 113頁 131,171文字

しびれは「なったものにしかわからない」と言われることが多く,表現しづらい症状である.そのため,言語的な側面に重点を置いたインタビューだけでは,十分に掬い上げることが難しい.そこで,データ収集開始時にはインタビューとフィールドワーク(以下,FWとする)を併用して実施した.FWはJorgensen(1989)の提唱する,研究者と参加者とのコミュニケーションを基盤とし特定の見方・視点に寄らない方法に則った.データ収集を進めていくと,インタビューでの語りづらさが見受けられ,その理由がしびれの次のような特性にあることに気が付いた.しびれは,同病者・医療者・家族などとのかかわりや,何かを触ったり,歩いたり食事をしたりといった行為を含む,生活のなかで生じていた.それは,その場で語られることがなければ,多様で多忙な入院生活の中に埋没していた.リアルタイムでそれらを掴むには,その場を共有し傍らで記録するFWの重要性が高いと判断し,FWをデータ収集の主軸とした.FWは,リハビリ場面とその前後の生活動作の時間も含めた関わりから成り,随時メモをとった.その中での対話も含めフィールドノーツ(以下,FNとする)に記載した.患者らは,会話において様々にからだを触ったり,動かしたりしていた.その様子はFN内に( )で記載し,その他の姿勢や歩き方,表情なども記した.FNの総分量など詳細は表1の通りとなる.本稿ではFNのみを分析し論述しているため,FWについての情報のみ表1に掲載した.

2) 分析と記述

現象学的思想を下敷きとし,Merleau-Pontyの〈身体〉を視座として行った.分析に際しては,村上(2013)松葉・西村(2014)の方法を参照した.具体的な手順は以下となる.FNを繰り返し読み,1年~1年半かけ全データについて参加者毎に分析を複数回実施した.からだの動きや感じ方に関する表現,しびれに関する表現のされ方やオノマトペと文脈の流れ,どのような動作をしながらしびれを語るのかに着目した.表現については,どのように変化しているのか,その変化を回復時期や季節,受診といった生活の文脈を念頭に置きながら読み込んだ.この過程を本稿では分析とする.上記を繰り返すなかで,しびれが語られる際によく出てくる動き・表現,印象的な場面・発言などが見えてきた.次に,それらに関連するFNデータを全て抜粋し再度分析を行い,特定のからだの動きが,ある特定の文脈で意味をもって現れていたという関係性も見えてきた.なお,この分析過程を通してしびれている身体についての発見は複数あり,本稿では他人みたいという一つのあり方を提示した.

本稿記述では,Cさんのデータを示し議論していく.上述とも重なるが,しびれは周囲の人々や物との関係,生活の場,そして時間という多様な絡まりの中で現れていた.故に,しびれは個人の経験の文脈から切り離すと,断片的にしか見えず,事象を捉え損ねてしまう.他方で,そのような方法には,“その人だけ”の経験ではないかという批判が伴う.しかし,筆者の臨床経験やFW中,4名のFN分析においても,他人みたいという表現はよく耳にしたものであり,Cさんに限定されるような珍しいことではなく,しびれている身体の本質的特徴を現していると推測される.このような,しびれている身体の経験がいかに成り立っているのかを,個人の経験を入口としながらも,個人経験の内容を探究するのではなく,どのように交叉し,どのように意味が生じてくるのか,「個別の記述ゆえに共有可能性を得ようとする学」(村上,2016,p. 323)という立場で探究した.現象学的研究においては,経験を個人に閉じられたもの・数えられるもの・平均化できるものとして捉えていない(村上,2013松葉・西村,2014村上,2016).個別の経験は,様々な周囲の人々との関わりの中で意味を帯び現れてくる.言い換えると,ひとりの患者の経験には,数多くの人々が関わっており,その交叉の中で経験が意味を帯びてくる.そのため本論文では,4名のデータを断片化し類似性を提示するのではなく,先の村上(2016)の言葉を借りると,Cさんの記述を通してしびれている身体に共有可能な知を得ようとするものである.Cさんによる記述とした理由は,脳血管障害という患者数が多く(厚生労働省,2008),臨床で接する機会の多い疾患であることから,より多くの読者の経験を触発すると考えたからである.

なお,分析・記述にあたっては,現象学的看護研究を専門とする者と,現象学の専門家にスーパーバイズを受け記述の精度を高めた.また,現象学的研究や質的研究を専門とする研究会や,大学院ゼミで複数回発表し,ピアレビューも行い現象学的頷き(Van=Manen, 1990・1997/2011)を得る記述とした.

3) 倫理的配慮

本研究は首都大学東京(承認番号13098)と研究協力施設(承認番号H25-36)の研究安全倫理審査委員会による承認を得て実施した.研究参加者には,研究の趣旨,プライバシーの保護,自由意思に基づく参加と辞退の権利について文書を用いて口頭で説明し同意を得た.調査終了後にも再度,学会発表や論文として公表することについての承諾を得た.

Ⅲ. 結果

研究目的に照らし合わせ,本稿では以下の点から結果を構成した.しびれている身体の在り方の特徴でもある,「他人みたい」ということが,どのような構造を持っているのか.また,他人や物扱いするのとは違い,「みたい」と断定をさけ,完全に自分と切り離さない経験がどのように生じていたのか.それが,どのような場面でどのように現れてくるのかを記述した.抜粋したFNの表記は(CFN#1p8)とし,#はFWの回数,頁数は全377頁中の何頁目かを示している.下線部は解釈において着目した箇所,FN中の発言からの引用は「 」とした.

1. Cさんの経過

Cさん(50代男性)は脳幹部出血のため急性期病院で左不全麻痺,構音障害,複視,右上下肢失調の診断を受け1ヶ月の保存的加療後,リハビリ病院に転院し約4ヶ月半の訓練後自宅退院となった.ADLは補助具を用いることで,不安定ながらも自立していた.Cさんは,「こっち半分」とからだを縦に切るジェスチャーをしながら,左半身のしびれをしばしば語っていた.構音障害があるCさんとの会話は単語か短文が多く,FNにおいても,Cさんの話し方をそのまま記載している.なお,下記のFNは全て回復期のものである.

2. 「他人みたい」の成り立ち―自分であり,自分でない

Cさんはしびれている左半身を自ら触りながら,また他者に触られながらなど接触と共に「他人みたい」「ひとの足みたい」と様々に語っていた.以下では,自分のからだに対する違和感を含む経験の成り立ちを,からだの手応え・不連続な行為可能性・指示し動かすからだとなるという視点から記述していく.

1) からだの手応え―「他人みたい」

まず,「他人みたい」と断定を避けた表現の成り立ちを記述する.Cさんは初回のFWにおいて 「しびれが,(右手で体の中央を頭から縦に切るように手を動かしながら)左は,づめたい,づめたい.こっちは(左上下肢を触りながら)他人,みたい.」(CFN#1p5)と触れながら何かを確かめるように語っていた.このような「他人みたい」と語られる際の,からだを触る動きに注目してみる.

【抜粋1 #2p26-27:病室での会話場面】

Cさんは,右手を歩行器の太くしてあるグリップにのせながら,

C 「曲がるの,難しい.」

坂井「曲がるのが,難しいですか?それは,右回りが?」

C 「両方.①(左手で,左腿,膝,脛あたりを行ったり来たり,さするように動かしながら)左,膝下,しびれているから,うまく回れない.(さらに,ごしごしとこするようにさすりながら)こっちは,他人のようだし,しびれているから.これがなければ,はやいよね~.」

自分で自分のからだに触るという,“自分”であることの実感が意識せずとも確認されるような行為において,逆のことが生じていた.自らのからだに触れ,他人のようだと感じられることが,どのように現れていたのだろうか.

①ではさするように手を動かす軽い触れ方がなされていた.Cさんは,しびれている足を触りながら,足に生起する感覚を確かめるように手を往復させ,しびれの範囲を特定していた.ここでは,しびれの現れが焦点化されていたが,②ではより強い触れ方がなされ,しびれに加えて「他人のようだし」とからだについても語られ,Cさんの志向性が動いたことが見て取れる.しびれているからだに触れると,しびれがいっそう強く感じられ,しびれに覆われる状態になる.このことが,①のように触れられた表面をはっきり自覚させしびれの範囲を定めることを可能にさせる.一方で,しびれによるわからなさも生じていた.歩行中に疲れを尋ねられたCさんは「(左腿を触りながら)わけわかんないから,しびれてるから.」(CFN#8p179)と答えたり,傷の痛みを尋ねられ「こっち,しびれるから,わかんない.」(CFN#6p129)など,病前には自ずと分かっていたようなことがわからなくなっていた.②においても触れることを契機に,わかる―わからないの両側面が生じていたことがわかる.

触れ方は,触れられている対象が触れ方を促してくるのであり,両者は分かちがたくその経験を分有している.それは考えてなされているというより,むしろ前意識的になされており,触れ方は何を志向しているのかを同時に示すことにもなる.②のCさんは,しびれに覆われ不明瞭になったからだの手応えを,さらに力を入れごしごしと往復しながら触れることで,自分であることの手応えを探っていたことがわかる.つまり,「他人のようだ」ということには,しびれが表面だけにとどまる経験ではなく,触れることに応じた,触れ返してくるという“自分のからだの手応え”の変容が同時にあることがわかる.それは語りにおける応答のずれからもわかる.曲がるという動作の難しさを問われたCさんは,「しびれているから,うまく回れない」としびれに接続させて答えていた.しびれていることが動作のダイナミクスにも波及していた.これまでとは異なるものの,何らかの手応えがあることで他人と言い切ることが難しい.物ではなくからだであることが保たれる一方で,自分のからだとしての手応えの乏しさも同時にある.それが,物でも他人でもなく,自分であり自分でないような,他人みたいと形容されていた経験であり,“私の”という人称が不確かさを伴いながら残っていた〈身体〉であった.

2) 不連続な行為可能性―「毎日,違う人の足みたい」

ここでは,「他人みたい」と言われる経験が,どのような状態であるのかに着目する.以下は理学療法場面で,理学療法士(以下PTとする)にしびれている左足に直に触れられたことをきっかけに,語り始めた場面である.

【抜粋2 #4p91:裸足で実施していた立ち座りの訓練が終わった場面】

PTはCさんの前にしゃがみこみ,左足から拭いていく.

C「これが,毎日,違うひとの足,みたいだから,困る.

PT「いつも,感覚が違うんですか?」と言いながら右足を拭く.「そう.」と頷くCさん.PT「どんくらいですか?」と尋ねると,C「3.今日は薬(リリカ)飲んでるから.」と普段よりしびれが軽減されていることを伝える.

何が“毎日違う”として経験されていたのか.一見すると,自分の足との対比において,毎日「違うひとの足」とも読めるが,もう少し入り組んでいた.この場面では,訓練直後で裸足になっていたしびれている左足をPTに拭かれたことが,Cさんの発言を促していた.関わりがないところでの発言ではなく,訓練直後であったり,触れられてしびれに意識がより向かうなど動作や,床や消毒布,そして他者や内服薬など様々な連関の中でCさんに現れていた.“毎日違う”ことやその程度さえも,実際の行為の最中で,その都度生じ確かめられていた.“毎日違う”ということは,私たちの普段の生活の中では殆ど起きず,昨日できたことは今日もできると考えるまでもなくわかっている.他方でCさんは,昨日できていたことが今日やってみるとできなかったり,逆に昨日は上手く歩けなかったのに,今日はできるということが生じていた(CFN#4p95).歩く,立ち上がるなど,一つ一つの行為の可能性そのものが安定していないことがわかる.そのことが,「ひとの足みたい」であるばかりではなく,誰とも定められない「毎日,違うひとの足」という,多重の他人性を含んだものとして経験されていた.他人のように感じることに加え,その他人は同じ他人ではない不安定さも伴っていた.

3) 指示し動かすからだとなる―「わかってるけど,できない」

「他人みたい」な身体は,実際にCさんにどのように現れ,どのように経験されていたのか.顕著にあらわれたのが,やはり訓練場面であった.抜粋3は,その理学療法で立ち座りの訓練と,下肢を鍛えるつま先立ちの運動をしていた場面である.Cさんのからだの動きと,その感じ方に着目して見ていきたい.

【抜粋3 #3p70:理学療法場面】

PT「何も摑まらないで,座りますよ.」と指示が出る.①方向転換し,ベンチの方向にお尻を向けて,あとは座るだけというところで,一旦停止ボタンが押されたかのようにCさんは直立して止まっている.PTも見守っている.

C 「わかってるけど,」と爆発的な大きな声で,ちょっとイライラを含ませている.PTにからだを押し下げるように動きを少し誘導され,椅子に座る.

C㋐「わかってるけど,できない,からだが,動かない.こっち(左足を触り)も,収拾,つかないし,こっち(右足を触り)も,収拾,つかないし.わかっているけど,できない.」と私に語るCさん.

坂井「体が動かないんですね~.」とCさんの腿のあたりを見ながらつぶやく.

C 「うん.」と頷く.PTが椅子を一脚持ってこっちに戻ってくる.

(中略:壁に両手をついて,つま先―踵と交互に上下させていく訓練をする.)

②Cさんは思いっきりつま先立ちをした状態で,カウントが終わっても壁に手を付き,へばりついたまま停止しているような姿になっている.PTがもういいですよという雰囲気で声をかけると,

C㋑「おろせない,おりない.」と助けを求めるように壁に向いたまま話す.

PTがCさんの腰に自分の手を添えて,ゆっくりおろしてくる.

C 「やっと,おりたー.」

この場面だけを見ると動きづらさについて訴えており,しびれとは関係しない場面のように見える.だが,上記訓練場面前にCさんを呼びに病室にいくと,リハビリ予定表のPTと書かれた箇所を指さし「これが,一番,きつい.」とつぶやき,その理由を「わかってくれない.しびれてるから(左腿を触りながら)歩けない,って言ってもわかって,くれない.」と,しびれていることでPTの指示通りにできないことが理解されにくいことを訴えていた(CFN#3p65).つまり,Cさんの視点からはしびれと地続きのこととして経験されていたことがわかる.

Cさんのしびれている身体の経験を詳しく見てみよう.CさんはPTの指示に従い動いているが,点線部①②ともに動きの切り替えの際に,次に求められていた動作に移行できず,止まってしまっていた.自分のからだでありながら,自分で動かすことができない場面が不意に生じ,動きの再開には他者によるきっかけづくりを要していた.着目したいのは,その時Cさんが㋐「わかってるけど,」や㋑「おろせない,おりない.」と,複数の視点から語っていた点である.まず㋐を見てみると,「わかってるけど,できない」自分と,「からだが,動かない.」と,自分とからだが分けられ,からだが動かないということが「収拾,つかないし」と思い通りにならないことが語られた.そして再び,「わかっているけど,できない.」自分に戻っていた.㋑も同様である.これらは,前述で確認した,「他人みたい」なからだの現れであり,自分と他人みたいな自分との同居状態であると言える.言い換えると,自ずと動いていた自分のからだではなく,自分のからだを自分で指示するという,指示し動かすからだで日常生活を営んでいることがわかる.

Ⅳ. 考察

1. 身体の両義性の変容

しびれている身体において,自分であるとも自分でないとも言い切れない経験が記述された.普段,私たちは自分のからだを意識したり,それが自分であるか否かを考えながら生活してはいない.鷲田(1995)による身体の論考にあるように,自分の身体はふつう素どおりされる透明なものであり,身体はいわば忘れ去られている.それは,「身体をもつというよりもむしろそれを生きている」(鷲田,1995,p. 22)と,我々の生きられた身体の在り様を示している.ところが,Cさんはしびれているからだを触りながらや,訓練や生活動作を通して「他人のようだし」や「毎日,違う人の足,みたい」と,身体が透明ではなく姿を現していた様子が記述された.私のからだでありながら“私の”という〈身体〉の人称性が問われてしまう経験がどのように生じていたのか,及びそのようなしびれている身体での生を考察する.

私たちは何か物に触れると,物の質感などだけが生じるのではなく,それをからだのどこで,どのように感じているのか,からだの内側でも感じている.接触においてからだに生じるこのような感覚は,物体には生じない身体特有の出来事である.その感覚を,現象学の創始者であるHusserl(1952/2001)は再帰的感覚と名付け,触れる側が触れられる側に反転しうることを示していた(pp. 171–179).この再帰的感覚が生じることが,私たちに“自分のからだ”であることを確認させてくれる(p. 179).言い換えると,物に触れるという外に向かう志向において,同時に内なる自らのからだも志向されている.つまり,触れている自分のからだを意識する手前で確かに実感しているのである.触れることが触れられることにもなるという身体の両義性であり,自らのからだに意識を向けると“からだの手ごたえ”として感じるものである(Merleau-Ponty, 1945/1967, p. 165).この視点からしびれている身体の経験を見てみると,身体の両義性に変容が見られることがわかる.しびれている身体では,接触においてしびれをより強く感じるからだを実感させられ,そのことが自己の身体が他人になりきらないように,手元に留めていた.一方で,疲れや痛みなど病前の〈身体〉では自ずとわかっていたことが,しびれていることで覆い隠されるようにわかりづらくなっていた.いわば接触を契機に前意識的に生じていた内なる自らのからだがおぼろげになり,自らのからだを他人のように感じさせていた.それは,触れることで触れ返されることが可能であるという,身体の両義性が残されていながら十全には働かない,身体の両義性の変容が生じた〈身体〉であった.

このような触れることを契機とした変容を含みもつ,しびれている身体で生活するとはどのようなことなのか.〈身体〉における触覚の特徴を,遠藤(2006)は視覚や聴覚が分析する能力であるのに対し,触覚は切り分けないことにあると述べる.それは同時に,「世界によって触れられることで確かにそこに自分がある(居る)という実感」(p. 179)をもたらすと述べ,生きているという実感にもつながるとしている.この点は坂井(2008)が,「しびれの介在はふれることを障害し,ふれ合うことで無意識に実感していた自己の存在や,他者との交流といった自己を支える基盤を揺るがす危険性」(p. 61)があることを指摘していた点と重なる.本結果を踏まえると,自己を支える基盤を揺るがすという指摘が,患者視点でどのように経験されているかわかる.すなわち,からだの手応えが実感しづらく,歩行など動作としてできているように見えても「毎日,違う人の足みたい」と,行為の可能性も安定しない.さらには,自ずと得られていた実感が分かりづらく,「わかってるけど,できない」と自分のからだを意識的に操作しようとしてる姿が記述された.それは,自らのからだへの信頼が不確かになることであり,私が“私という身体”としてここに居るという,存在の確かさが不確実になる中での生活であり,それがわたしという実存を揺るがす根底にあったと言える.

2. 看護への示唆

本研究により,しびれている身体特有の他人みたいな身体を生きる経験が明らかになった.共感しづらいと言われるしびれであるが,そこには前意識的な身体のあり方の変容があり,患者本人ですらも明確に言語化しづらいものであることが初めて開示された.このような,しびれている身体を知ることにより,患者・医療者双方が経験を捉え直すことを促し,新たな理解を生むことを可能にすると考える.

さらに,調査過程を振り返ると以下の実践への示唆が得られた.筆者が現象学的な態度で実施したFWでは,患者の経験を医療の枠組みで評価したり,対処法を提供することはしていなかった.徹頭徹尾,しびれている身体に,そして患者が関心を寄せている事柄に共に関心を寄せていた.その態度が,些細なことでも語ることを可能にし,言語化を促す装置になっていた.具体的な実践場面に即して見ると,我々看護師は患者らが様々な生活行為を通してしびれている身体に出会い,顔をしかめ声を漏らすその現場に共にいることが多い.その際に,行為可能性のみに目を向けるのではなく,患者の経験に関心を寄せ声を掛けることで,患者がしびれを表現する場を得ることにつながる.しびれにまつわる対話が展開され共に言葉を探すことが,言葉になりづらく患者にしかわからないとされていたしびれを,患者―看護師間で共有可能な次元に近づけることにもなる.特に回復期では,急性期を脱し訓練が本格的になることで,これまでとは異なる自らのからだを発見させられる時期でもあり,身体経験に着目した関わりの必要性が高いと言える.

研究への示唆としては,“主観的”で難治性とされる自覚症状への,問題解決型思考とは異なる研究視点の可能性を見出した点である.難治性である場合は研究自体が数少なく,自覚症状に関しては主観的であり医療者にはわからないという立場で研究されていた.それに対して,本研究成果として患者の経験にまず立ち帰り,理解することに関心を向けることの意義を提示した.関心を寄せるという態度が関係性を築き,理解の共有基盤をつくる可能性を拓いていた.もう一つは,他者にはわからないとされる,自覚症状が見えるようになる視点の取り方を,FWを通して示した点である.本研究で言うと,しびれだけを切り取って示すのではなく,そのような経験を生み出す背景としてのしびれている身体の在り方を示すことが,自覚症状がそれとしてどのように現れてくるのかという,現れ方の文脈ごと示すことになったと考える.文脈ごと示すことは,多様な現れ方,語られ方をするしびれに柔軟に対応することを可能にする.それにより,症状を緩和する方策に囚われがちであった医療の枠組みを柔軟にし,新たなケアを創造していく第一歩になると考えられる.

3. 研究の限界と今後の課題

本研究は中枢神経障害によるしびれを対象としており,結果の汎用性については今後検討が必要である.糖尿病や化学療法による末梢神経障害においても,患者理解とケアの構築が急務とされている.本結果を踏まえ,神経損傷部位による相違点の有無を検討するためにも,他の疾患によるしびれの身体経験についても,更なる研究の蓄積が必要である.今後の課題としては,対処法を探究する研究だけではなく,患者自身が主体的に動いていける場を共に作っていくケア創造型の研究を行い,従来とは異なるケアの構築に取り組む必要がある.

謝辞:本研究にご協力下さいました研究参加者の皆様,研究協力施設の皆様に心より御礼申し上げます.ご指導下さいました首都大学東京西村ユミ教授,東京大学榊原哲也教授,研究会の皆様に感謝いたします.本稿は,首都大学東京人間健康科学研究科に提出しました博士論文の一部に加筆修正したものである.

利益相反:本研究における利益相反はない.

文献
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