2021 年 41 巻 p. 876-884
目的:中堅期の市町村保健師の職業的アイデンティティの形成プロセスと影響要因を明らかとする.
方法:中堅期の市町村保健師7名を対象に半構造化面接を行い,複線径路等至性モデリングの手法を用いて分析した.
結果:中堅期保健師の職業的アイデンティティの形成プロセスは「自分らしさ発揮までの焦燥期」「保健師としての自信の獲得期」「キャリア移行に対する応変期」の3つの時期に区分された.彼らは力量不足に焦りながらも周囲のサポートを得て,住民との関わりを重ねることによって保健師としての一定の自信を獲得していた.その後,環境や役割等が変化しても,価値観や意識の変容を図りながら,移り変わる状況に対峙していくことで中堅として成長していた.同時に中堅職員と一保健師の間での役割葛藤も抱えていた.
結論:中堅期保健師の職業的アイデンティティの向上には,役割葛藤に対するサポート体制の強化が重要であることが示唆された.
Purpose: The purpose of this study is to identify the formative process of professional identity in mid-career municipal public health nurses, and factors that influences its formation.
Method: A semi-structured interview was carried out targeting seven mid-career municipal public health nurses, and the results were qualitatively and descriptively analyzed using the Trajectory Equifinality Modeling methods.
Results: The formative process of professional identity in mid-career municipal public health nurses was classified into three phases—first “suffering frustration until establishing one’s identity,” second “acquiring confidence as a public health nurse,” and third “responding to career changes.” Although the subjects were frustrated due to their lack of competence, they could acquire confidence as a public health nurse by developing relationships with the residents and getting support from people around them. Later, they experienced mid-career growth, even when their environment and roles changed, by confronting changes in circumstances and adjusting their values and awareness. At the same time, they experienced conflict between their roles as a mid-career staff member and as a municipal public health nurse.
Conclusion: To improve the professional identity of mid-career municipal public health nurses, reinforcing the support system for role conflict is suggested to be important.
保健師は業務の多様化や地域を基盤とする専門職の増加により,職業意識の変化が生じ,職業的アイデンティティ(以下,職業的ID)の拡散が生じているとされ(佐伯,2012),特に地域保健の主軸となる中堅期保健師の職業的IDの揺らぎが危惧されている.職業的IDは保健師活動の能力の基盤をなし,スキルや知識を発揮し,その行動を司るうえで欠かせないものとされている(永江,2012).しかし,中堅期の保健師はリーダーシップへの自信のなさや後輩育成,関係機関との調整等の自身の職務遂行を超えた役割に対する力量の脆弱性が浮き彫りになっており,人材育成が喫緊の課題となっている(永江,2012).
保健師は老人保健法施行後,市町村に急激に増員され,保健師活動の基盤が脆弱であった自治体の市町村保健師は保健所保健師をロールモデルとしながら経験を重ね,時代の要請に応えながら職業的IDを形成してきたというプロセスを持つ(小路,2020).しかし,地域保健法施行後,市町村への権限移譲が進むにつれて市町村保健師と保健所保健師が同じ地域で活動する機会は激減し,関係性は希薄化した(大野ら,2000).さらに業務の多様化に伴い,保健師の業務形態は地区分担制から業務分担制へと変化し,縦割りの行政組織の中で少数・分散配置が進み,先輩の働く姿を間近にしながら保健師の役割意識を醸成していく環境が得られがたい現状がある(根岸ら,2010).中堅期の市町村保健師は地域保健法施行後に採用され,分散・少数配置の中で職業経験を重ねることを余儀なくされ,このことは職業的IDを形成するうえでも影響を及ぼしていると考えられる.しかし,中堅期の市町村保健師がどのように職業的IDを形成してきたのかについては明らかとなっていない.そこで,時間を捨象せず,個人の変容を社会との関係で捉え記述しようとする複線径路等至性モデリング(Trajectory Equifinality Modeling:TEM 以下,TEM)(安田・サトウ,2012)を用いて中堅期の市町村保健師の経験の径路を探究することにより,職業的IDの形成プロセスと形成に影響を与えた要因を明らかとしたいと考えた.TEMは個々人が多様な径路を辿ったとしても等しく到達する地点(等至点Equifinality Point:EFP)があるという概念を発達的・文化的に組み込み,径路と選択に焦点をあてて人の発達や人生径路の多様性・複線性の時間的変容を捉え,多様な経験の類似性及び相違性を比較検討することにより径路の特徴やその事象の背後に潜む関係性を明らかにすることができる(安田・サトウ,2012).
本研究の目的は,TEMを用いて中堅期の市町村保健師の職業経験の径路の多様性を捉え,径路に影響を与えた要因を探究することによりそこに内在する職業的IDの形成プロセスと影響要因を明らかとすることである.これにより,中堅期の市町村保健師の職業的IDの形成プロセスの特徴を見出すことができ,人材育成プログラムの開発に資することができる.
用語の定義
保健師の職業的アイデンティティ:根岸ら(2010)の定義を参考として,本研究では保健師の職業的IDを「自らの思考,行動に結びつく,常に保健師であるという職業に対する意識であり,職業・人生経験をとおして周囲の環境との相互作用の中で日々変化しながら培われるもの」と定義する.
中堅期保健師:「中堅期保健師の人材育成に関するガイドライン(永江,2012)」の定義を用い,経験年数5年(6年目)から19年(20年目)とした.
TEMを用いた質的記述的研究である.TEMは研究を具体的に行うために用意された概念ツールを用いて,個人の経験を記述する(安田・サトウ,2012).TEMの概念ツールと意味及び本研究での適用は表1のとおりである.
概念ツール | 意味 | 本研究での適用 |
---|---|---|
等至点 (Equifinality Point: EFP) |
研究テーマに基づいて決定される.多様な径路がいったん収束する地点.等至性の具体的な顕在型であり,行動や選択や感情などとして焦点化される. | 本研究のテーマである「職業的IDの形成」地点として,対象者が「保健師としての一定の自信と成果が実感できている」と認識している状態とした. |
両極化した等至点 (Polarized EFP: P-EFP) |
等至点とは価値的に背反するような行動や選択,感情の有り様を示す. | 職業的IDの揺らぎを示すものとして「保健師としての自信が乏しい・役割が遂行できていない」と認識している状態とした. |
分岐点 (Bifurcation Point: BFP) |
複数の径路が発生・分岐するポイント.ここにかかる諸力(SDまたはSG)を捉えることで,それまでの歩みを分岐させる力の有り様を分析する. | 職業的ID形成に大きく関与したと考えられる経験(自信の向上またはその逆,意識変化が生じた,印象深い経験,視点が変わった,等)があった地点. |
必須通過点 (Obligatory Passage Point: OPP) |
通常,ほとんどの人が通過する地点. | 人事異動等,市町村保健師であれば通常誰もが経験する地点. |
社会的方向づけ (Social Direction: SD) |
個人の行動や選択に制約的な影響を及ぼす,社会的な諸力を象徴的に表した概念.等至点に近づくことを妨害する力. | 職業への自信喪失,意欲減退等の要因となった経験,認識,出来事,周囲の環境等. |
社会的助勢 (Social Guidance: SG) |
社会的方向づけとは逆に作用する力.行動や選択を促進したり,助けたりする力.等至点に近づくことをサポートする力. | 職業への自信や意欲を高めてくれた経験,認識,出来事,周囲の環境等.状況を好転させた出来事や行動を促したもの. |
非可逆的時間 | 決して後戻りしない持続的なものとして定義された時間概念. | 保健師を志したときから現在までの後戻りできない時間. |
安田・サトウ(2012)の解説をもとに作成
研究対象者(以下,対象者)は,平成10年の地域保健法全面施行後に市町村(中核市・政令市を除く)に採用された中堅期保健師で,管理職には就いておらず,健康増進や母子保健業務等の実務経験のある者とした.対象者の選定は,保健師教育,地域保健を専門とする研究者や市町村の統括的立場にある保健師からの紹介を受け,研究協力の同意を得られた者とした.
3. データ収集方法平成28年12月から29年10月において半構造化面接を1人につき2回実施した.語りは対象者の同意を得たうえでICレコーダーに録音した.1回目の面接では保健師になる前から現在までの人生経験及び職業経験を聴き取った.2回目の面接では職業への意識をさらに深く聴きとった.
4. 分析方法分析は以下の手順で行った.
1) 7名のTEM図の作成(1)1回目の面接終了後録音データを逐語録化し,職業的IDに関連すると考えられる語りに焦点をあて,切片化したデータをそれぞれに内容を端的に示すラベルをつけてカード化し,時間軸に沿って時系列に並べ替え,TEMの概念ツールを用いて径路のモデル図(以下,TEM図)を対象者別に作成した.
(2)TEM図を2回目の面接時に対象者に提示し,記載事項の修正や追加事項の有無を確認し,適宜修正と追記を加えた.その後,職業的ID形成の転機と考えられる経験を分岐点として焦点化し,その妥当性を対象者と確認するとともにその時の認識や行動をさらに深く聴きとった.合わせて必須通過点等の概念づけの妥当性について対象者とともに確認した.
2) 統合したTEM図の作成個々のTEM図の類似点・相違点を比較検討し,経験は異なるが共通の意味を有し,かつ職業的IDの形成に関連していると考えられた地点を焦点化しながら多様な径路を統合したひとつのTEM図(以下,統合したTEM図)を作成し,経験の径路の全体像を可視化した.
3) 径路に与えた影響要因の探索統合したTEM図より組織体制や人間関係,時代背景といった社会的要因としての社会的方向付けあるいは社会的助勢,個人の感情や経験としての社会的方向付けあるいは社会的助勢が必須通過点・分岐点・等至点にどのように作用しているか,また必須通過点・分岐点・等至点がどのような社会的方向付けあるいは社会的助勢につながっているかを丹念に辿り,対象者の経験と社会的要因を関連づけながら職業的IDの形成プロセスと影響要因を分析した.
5. 倫理的配慮研究は,「神戸女子大学人間を対象とする研究倫理委員会」で承認を得て実施した(受付番号:H28-16).対象者に倫理的配慮及び個人情報の保護について文書及び口頭で説明をおこない,文書による同意を得た.
対象者は7名で全て女性であった(A~G).平均年齢は36.1 ± 5.4歳,経験年数の平均は11.1 ± 3.8年,勤務地は北陸・近畿・中部・四国地方であった.全員が市町村の保健福祉部署において実働スタッフとして勤務していた.
2. TEM図の統合における各地点の焦点化と時期区分の設定7名のTEM図の類似点・相違点を比較検討したところ,保健師を志し入職した地点が1つ目の必須通過点(OPP①)となった.一定の自信を獲得する転機となった経験を1つ目の分岐点(BFP①)とし,保健師としての自信獲得の地点を職業的IDが形成された1つ目の等至点(EFP①)として焦点化し,背反する状態を両極化した等至点(P-EFP①)とした.その後,職場環境の変化,役割変化,結婚・出産といった生活変化と径路は大きく3つに分かれ,ある者はこれらを同時に経験していたことから同じ時期区分とし,2つ目の必須通過点(OPP②),分岐点(BFP②~④)を焦点化した.これらの経験を経て中堅としての役割を自覚し行動しながら,仕事の成果を実感している状態が見出されたことから職業的IDが形成されていると捉え,この地点を2つ目の等至点(EFP②)とし,背反する状態を両極化した等至点(P-EFP②)とした.また,分岐点に基づきプロセスを第1期から第3期に区分けした.次に,各地点における行動や心情等,経験の在り様を追記し,径路において職業的IDの形成に抑制的影響を与えたと考えられた事象を社会的方向付け(SD),促進的影響を与えたと考えられる事象を社会的助勢(SG)として位置づけた.さらに3つの時期区分について,その時期を象徴的に表す言葉を用いて,第1期を自分らしさを発揮するまでの焦燥期,第2期を保健師としての自信の獲得期,第3期をキャリア移行に対する応変期と命名した.統合したTEM図を中堅期保健師の経験の径路の全体図(図1)とした.
中堅期保健師の経験の径路の全体図
中堅期の市町村保健師の職業的IDの形成プロセスを第1期から第3期までの時期区分に沿って記述する.時期区分を【 】,TEM図において示されている用語や文言については〈 〉で示し,その地点における対象者の認識や思いを象徴する語りを〔 〕で示す.
1) 第1期:自分らしさを発揮するまでの焦燥期第1期は新人期における職場環境への不慣れと自身の未熟さへの焦りや不安を抱えながらも,専門職としての一定の自信を獲得するまでの径路であった.自分らしさを求めながら模索していた時期と捉え【自分らしさを発揮するまでの焦燥期】と命名した.〈OPP①:保健師として市町村に入職する〉までには〈保健師の資格取得までに異業種を経験〉する〈卒業と同時に保健師資格を取得〉し,そのまま入職にいたるという2通りの径路があった.入職後は〈志した仕事につけた喜びを感じる〉という〈期待〉の気持ちを抱くが〔デスクワークに追われ仕事への違和感を覚える;E〕といった〈イメージしていた仕事とのギャップに戸惑う〉ことや〔誰ともしゃべれず,仕事から帰ると毎日泣いていた;B〕〔自分が出せず悶々としていた;F〕といった自分らしさが出せないもどかしさを抱え〈職場になじめず居場所がないと感じる〉といった〈戸惑い〉を味わう.そして〔受持ち事例の過酷な状況に対して何もできない自分に落ち込み,どうにもならない感情に圧倒されて泣く日が続く;A〕,〔(子育て経験を経て入職)母親失格の自分に保健師の資格があるのだろうか;D〕といった〈受持ち事例や住民と関わる中で自身の未熟さに直面し,自信をなくす〉という〈SD:力量の壁〉に突き当たる.焦燥感や自信のなさを抱える彼らではあったが〔厳しくも丁寧に指導された;G〕〔機が熟すのを待つことも大事だと教わり,その意味があるときふっと腑に落ちた;A〕といった〈SG:先輩保健師や仲間の助言・励まし〉,〔母親の苦しさがわかる自分だからこそできることがある;D〕〔あなたのふんわりとした雰囲気が好き;F〕といった〈SG:住民との共感・住民からの励まし〉が活動を継続する支えとなり,〈BFP①:受持ち事例の成長過程に立ち会う・住民組織とともに活動する・家庭訪問を積み重ねる〉という経験を経て保健師としての自信の獲得期へと向かっていた.
2) 第2期:保健師としての自信の獲得期第2期は保健師としての一定の自信を獲得できた時期として【保健師としての自信の獲得期】と命名した.彼らは受持ち事例との関わりや家庭訪問等の経験を積み重ねることをとおして〈EFP①:住民との信頼関係の構築を実感し,保健師としての自分を認めることができる〉という状態に到達していた.住民との信頼関係は〈住民から必要とされている〉という自身の存在価値に対する肯定感と〈住民を信じることができる〉という住民への肯定的視点という2つの側面があった.〈住民から必要とされている〉という意識は〔子育てに躓いた経験を持つ自分だからこそ,同じように子育てで悩んでいる母親の立場に立つことができる.このままの自分でいいのだ;D〕という語りに象徴される〈自己肯定感の獲得〉をもたらし,〈住民を信じることができる〉という意識は〔自分ではどうすることもできないと思っていた受持ち事例が子どもの成長とともに変わっていくのを目の当たりにした.その経過に立ち会えたことで自分がやらないといけないという気負いがなくなっていき肩の力が抜けた;A〕という語りに象徴される〈自己認知の変化〉をもたらしていた.
3) 第3期:キャリア移行に対する応変期第3期は公私ともに環境や役割が移り変わり,翻弄され迷いながらも,仕事や自己に向き合いキャリアを積んできた時期として【キャリア移行に対する応変期】と命名した.変化は,人事異動等の職場環境の変化,後輩育成等の新人期とは異なる役割の変化,結婚・出産といったライフイベントによる生活の変化,の3つに大別された.行政職員であれば自分の意思に関わらず避けることのできない人事異動は分岐点であると同時に必須通過点でもあった.
(1) 職場環境の大きな変化〈OPP②・BFP②:人事異動・機構改革により活動体制や業務内容,周囲の環境が大きく変化する〉状況は〈人事異動〉または〈機構改革〉に分かれた.〈人事異動〉はさらにその経緯によって〈実績を買われた異動〉と〈他部署への異動〉に分かれた.〈実績を買われた異動〉は〔これまでの経験を活かして新たな取組みができる;B〕という期待を伴った〈経験を活かして事業を創出する〉という径路につながり,〈他部署への異動〉は〔自分としては保健師本来の仕事ではないと思う;C〕という〈不本意な思いを抱えながら初めての業務に臨む〉という径路に分かれた.
〈機構改革〉は〔業務の効率化が優先され地区分担から業務分担に体制が変わり,自分が大事にしてきた住民優先という基盤がなくなった気がして憤りを覚えた;G〕という〈体制変化への反発心を抱えながら活動を継続〉するという径路を辿っていた.
(2) 役割の変化中堅期に入った彼らはプリセプターとして〈BFP③:後輩の育成に関わる〉という新たな役割を担うこととなる.〔後輩を通して自分を振り返ることができた;E〕〔後輩の前で弱音を吐くわけにはいかない;A〕〔後輩の成長を上司が認めてくれたことで自分が認められたと感じた;G〕といった〈SG:後輩をとおした省察・後輩を前に奮起する気持ち・上司からの承認〉が後押しをした形で対象者自身が自分の成長を自覚する転機となっていた.しかし,一方では〔後輩との価値観の相違に悩む.後輩を育てるということが一番苦手である;B〕といった〈SD:後輩との価値観の相違・後輩育成の苦手意識〉が作用し,中堅期としての役割を担うことへの自信のなさにもつながっていた.
(3) 生活の変化中堅期に特徴的な変化として〈BFP④:ライフイベント〉による生活の変化があった.〈結婚する〉という径路から出産・育児を経験した者は〈初めての出産・育児〉で〈仕事との両立に悩む〉が〈2度目の出産・育児〉を経験した後は〈肝がすわる・こだわりが減る〉という意識の変化を自覚していた.出産・育児の経験により〔今まで自分の考えを押し付け過ぎていたかもしれないと気づいた;E〕〔応援してくれる子どものためにも頑張ろうと思えた;A〕〔母親への共感性が高まった;C〕といった〈SG:視座の拡大・守るものが増えたことへの責任感・実体験に裏打ちされた自信〉を生み出していた.一方〈結婚しない〉という選択をした者は〈仕事に邁進し,ケースワーク・健康教育にのめり込む〉という径路を辿っていた.
(4) 変化を受け止め,次なる目標へと向かう職場環境の変化は彼らに葛藤や迷いをもたらすが,〔(介護保険部署への一人配置で介護認定調査を担当)訪問目的は調査でも個々の家庭の状況に詳しく触れることで見えてきたことがたくさんあった.その中で保健師として何ができるかを考えるようになった;C〕〔(職員の健康管理部署への異動)産業保健師としてのアイデンティティを新たに築いていくのだと考えを転換した;D〕といった〈新たな業務をとおして役割を再認識する〉ことによって〈EFP②:どこにいても保健師であると意識する〉という地点に至っていた.〈経験を活かして事業を創出〉した者は〔システムとして形になった;B〕ことで〈EFP②:成果の手ごたえを得る〉ことができていた.地区分担から業務分担という体制変化に対して異を唱えた者は同じ考えを持つ仲間と〔自分たちの考えは間違っていないことを何度も確認しながら;G〕粘り強く地区分担制の重要性を訴え続けた結果,地区分担制の復活という〈EFP②:成果の手応えを得る〉ことができた.その活動を支えたものは〈SG:仲間との連帯〉と〔(住民から)頼られていると思うと辞めるわけにはいかない;G〕という〈SG:住民への責任感〉であった.〈BFP③:後輩の育成に関わる〉〈BFP④:ライフイベント〉での経験は〈SG:後輩を前に奮起する気持ち〉や〈SG:実体験に裏打ちされた自信〉等に押し上げられ〈EFP②:多少のことでは動じなくなっている自分に気づく〉という状態へと到達していた.これらの状態は中堅期としての確固たる自信を獲得した地点として捉えられた.
さらに〔保健師として働き続けていくことに変わりはないが,次の道が見え始めている;D〕〔職員という役割を超えて,一人の人としてもっとまちを盛り上げていきたい;F〕〔部署や担当が変わっても住民の一生を通じてつながっているのが保健師という仕事;E〕〔保健師として一歩上を目指したい;C〕という語りに象徴される〈保健師であり続ける中で新たな道を見出す・組織を超えて活動する・保健師を極めていく〉という将来の自己イメージが見出された.
(5) 中堅期保健師が抱える葛藤と〈人間関係の壁〉自己の成長を自覚する前向きな意識が捉えられたと同時に〔まだまだ自分も支えてほしいし,教えてほしい;A〕〔仕事を任せられてはいるが,後輩は遠慮で意見が言えず,同僚は忙しく,先輩からは自分で考えてみてと言われる.みんなで話し合って動かしているという状態ではないことへのジレンマがある;G〕〔結局自分が動いてしまい,後輩育成という点では失格だと思う;B〕〔(多様な役割を担うことで)自分の担当地区での活動がどうしても後回しになってしまうことへの罪悪感がある;A,G〕といった,周囲から期待される中堅保健師としての役割と自身が目指す中堅としての姿,一保健師としてありたい姿との間で葛藤している状態も捉えられた.彼らは中堅期の保健師としての自信と成果を自覚すると同時に〈多様な役割からの重圧〉を抱え〈P-EFP②:中堅の自信が持てない・自身の活動が十分できていない罪悪感・役割変化への不適応感〉を認識し,相反する意識の下で活動していることが明らかとなった.加えて,彼らの自信や活動意欲を減退させる要因として〈人間関係の壁〉があった.〔新しい取組みをいっさい認めない上司の下で働く意欲がなくなった;B〕,〔同僚との人間関係で離職を考えるまでに悩んでいた;E〕といった,上司や同僚との軋轢は〈離職意図〉を生み出していた.
TEM図にて示された経験の径路から職業的ID形成の転機と考えられた分岐点は4つあり,2つの等至点が焦点化された.分岐点での対象者の行動や認識の在り様,分岐点,必須通過点から等至点に向かう径路に抑制的作用を与えたと考えられる社会的方向付けと促進的作用を与えたと考えられる社会的助勢の在り様から職業的IDの形成プロセスに影響を与えた要因について考察する.
1. 入職から1つ目の等至点(EFP①)まで1つ目の等至点は,新人期の職場での不適応感や力量不足による焦燥感といった混沌とした意識が保健師としての自信の獲得という形をとって一旦収束した地点である.新人期の保健師は先輩保健師等からの影響に左右され独自の職業的IDの形成には至らず,前期中堅期において専門職の自覚が強化され独自の職業的IDを認識するとされる(Okura et al., 2013).また,新人期における地区活動の蓄積は保健師の職業的ID形成に関与している(小路,2020;金藤ら,2017)ことが示唆されている.これらのことから,この地点において彼らは住民との直接的な関わりを通して保健師としての自信を獲得し,実体験に裏付けられた独自の職業的IDを形成し,新人保健師から中堅保健師へと成長を遂げていたと考えられる.そして,新人期の力量の壁を乗り越えた背景には〈先輩保健師や仲間の助言・励まし,住民との共感・住民からの励まし〉が社会的助勢として作用していた.太田ら(2013)は,新人期の保健師が職業的IDを形成していくためには,指導者の存在と保健師モデルが不可欠であるとし,金藤ら(2017)は力量不足の自覚がある新人保健師にとって他者からの評価による存在価値の確認は活動への自信や自己信頼につながる重要な要素であるとしている.これらのことから,新人期からの住民との関係構築の基盤となる活動の蓄積は自分らしさを発揮した独自の職業的IDの形成に関与し,先輩保健師や仲間の助言・励まし,住民との共感や住民からの励ましはその活動を推し進める要因であったことが示唆された.
2. 3つの分岐点における変化からの成長中堅保健師としての入り口に立った彼らの次の転機として,〈人事異動と機構改革〉〈後輩の育成に関わる〉〈ライフイベント〉という3つの分岐点が見出された.これらは彼らの周囲や彼ら自身に変化をもたらし,その変化に適応していくプロセスそのものが職業的IDの形成に関与していたと考えられる.
公務員であれば避けて通ることのできないものが人事異動である.自身の異動は無論のことであるが,上司や同僚の異動によって周囲の人間関係は変化し,人事異動がもたらす環境変化には大きなものがある.また,異動理由と個人の評価との間には実際には関連がなくとも,経験を買われての異動ではこれまでの活動を評価されたという自負を与える一方,本意ではない異動は自信や意欲の減退につながることもある.保健部署から福祉部署に異動した保健師は本来の活動ができないジレンマ(坪井ら,2013)や一人または少数配置の中で専門性が発揮できないジレンマ(國府ら,2016)を抱え,職業的IDの揺らぎを感じていることが明らかとなっている.本研究では他部署の業務を本来の保健師の仕事ではないと捉えていたことから,異動直後には職業的IDの揺らぎを認識していたことが推察されるが,その後の活動を通して保健師としての役割を再認識し〈どこにいても保健師であることを意識する〉に到達していた.國府ら(2016)は,福祉分野に異動した保健師は障害者や生活困窮者への支援をとおして保健師活動の本質の再発見をし,どこに行っても保健師は保健師であるという普遍的な役割の気づきがなされていく役割認識のプロセスがあるとしている.本研究においても同様の経験がなされ,保健師としての役割意識が醸成されたと考えられる.
〈後輩の育成に関わる〉ことは導かれる存在から導く存在へと役割が大きく変化する経験である.Benner(2001/2005)はプリセプターと新人看護師は患者が置かれた重要な状況の局面を共に認識するために多くの時間を費やすとしている.プリセプターを経験することによって彼らは〈多少のことでは動じなくなっている自分に気づく〉に至っていた.これは新人保健師と共に何度も重要な状況の局面に対峙する中で次第に鍛えられ,蓄積されていった意識であると考えられる.彼らを支えていたのは後輩の前で弱音を吐くわけにはいかないという〈後輩を前に奮起する気持ち〉であり,最初は見せかけの度胸のような状態であったものが,場を重ねることにより,本物の度胸=力量,へと変わっていったことを示している.そして後輩の成長を上司が認めてくれることで承認欲求が満たされ,さらにアイデンティティ形成が促されたと考えられる.
出産・育児という生活の変化も彼らの仕事への姿勢や視点に影響を与えていた.保健師独自の職業的IDの概念として根岸ら(2010)は職業と自己の生活の同一化を挙げ,自らの生活体験が保健師の仕事に生き,住民の生活や人生に自らのそれを照らし合わせ共感することがある,と述べている.出産・育児を経験することにより,一人の母親としての生活体験と保健師としての職業体験が一致し,職業的IDの形成が促されたと考えられる.
3. 中堅期保健師が抱える相反意識彼らはそれぞれが成長の手応えを自覚し中堅期の保健師としての職業的IDを形成していたが,同時に,ありたいと思う姿とのギャップを自覚する職業的IDの揺らぎも認識していた.平野ら(2007)は6~10年目の保健師の自信のなさは経験不足や技術の未熟さによるものではなく,自己の判断や行動を自己評価することによって生じるとしている.本研究により,より良いリーダーでありたいという思いと地区を担当する保健師として満足できる活動をしたいという一保健師としての思いとの間で常に葛藤を抱える中堅期保健師の姿が明らかとなった.井口(2016)は,行政保健師の離職意図に関して,仕事の要求が大きく仕事の資源が小さいほどバーンアウトの状態であるとしている.中堅として要求される多様な役割と一保健師としての活動とのバランスを調整できる組織体制,中堅期の保健師のサポート体制の充実が求められる.
本研究の限界は,対象が7名と少数であることから個人の経験が全体に及ぼす影響が大きくなることである.このことを考慮し,保健師の活動であっても,極めて個人的な経験や特殊な環境での事象は分析対象から除外した.今後は,より多くの中堅期保健師の経験を探究するとともにこの結果を保健師の現任教育に活用していく方策を検討することが課題である.
本研究により,職場のサポートを得ながら住民との直接的な関わりを重ねることで保健師としての自信を獲得した後,環境や役割等が変化しても,意識の変容を図り,新たな価値観を構築し,移り変わる状況に対峙しながら成長する中堅期の市町村保健師の職業的IDの形成プロセスの特徴が明らかとなった.合わせて,中堅としての役割と一保健師としての責務との間での葛藤が見出され,中堅期の保健師へのサポート体制の強化の重要性が示された.
謝辞:本研究にあたり,ご協力いただきました市町村保健師の方々に深く感謝申し上げます.本研究は平成28~29年度においてJSPS科研費(JP16H07369)の助成を受けた.
利益相反:本研究における利益相反は存在しない.