抄録
臨床の場において重要となる他者の理解を支えるつながりは,一般的に共感という現象として認識されてきた。しかし,実際に生身の人間が経験する他者とのつながりは,必ずしもこの「概念としての共感」に回収されるものではないだろう。一生活主体としての筆者のこの気づきをもとに,本研究では,人と人とのあいだに生じる実感としてのつながりについて,共感という概念で表現される以前の「共にある」こととして捉え,父の闘病生活に寄り添うこととなった筆者の経験の記述から,その内実を模索した。その結果,他者とのつながりの実感となりうる「共にある」ことの内実について,(1)知覚する身体に基づく間主観的な交流を生きること,(2)互いに自己内で完結しない対自・対他としての相互的な主体として生きること,という経験の位相を明らかにした。このつながりについての新たな見解により,臨床の場で求められる態度として,従来の共感概念が第一義としてきた他者を「わかる」ことを二次的なものとして位置づけ直し,他者と同じ一つの世界を生きることの重要性に言及した。