抄録
問題と目的
青年期研究者であるコールマンは、ヨーロッパなどの先進工業国において、若者が一人前になる移行は、長期化し不確実になっていると指摘する。長期化する大人への移行期で若者が経験する最も大きな変化は家族と労働市場の領域において経験されると述べている(コールマン2003)。しかし、若者の大人への移行をポスト産業社会での構造的な問題ととらえたうえでもなお課題は残る。若者自身は、どのように主体的に人生を生き抜いていけばよいのだろうか。たとえば、このような若者の大人への移行にかかわって、労働の問題や消費者教育を「現代社会」で授業実践をしているものに井沼(2008)がある。家庭科の授業では、家族の授業実践が試みられている。だが、若者の移行にかかわる理論的な構想は少ない。そこで本研究では、若者の困難にかかわる問題をふまえた家庭科の「家族」の授業構想の理論的枠組みを明らかにすることを目的とする。
研究対象および方法
若者が抱える困難とシティズンシップについてジョーンズとウォ―レス(1992)の研究を検討する。さらに政治思想研究者である岡野八代のシティズンシップ論(2009)を補助線としてジョーンズらが指摘したシティズンシップ概念の拡張について考察する。これらをふまえ、家庭科の「家族」の授業構想の理論的枠組みを明らかにする。
結果と考察
ジョーンズらは,社会学における若者を理解するための主なアプローチを二つに整理している。一つは,若者が置かれている状況を構造的に把握するアプローチであり,もう一つは,個人に焦点を当て若者を把握するアプローチである。ジョーンズらは,前者を構造主義者のアプローチ,後者を個人主義者のアプローチであるとしたうえで,これら二つのアプローチは家族というコンテキストを見ていないだけでなく,現状では,二項対立的に捉えられていると指摘している( Jones and Wallace.:4-12 )。そこで、ジョーンズらは,ライフコースアプローチこそ,「公的世界と私的世界を再結合させる」( Jones and Wallace1992:13 )新しい全体論的アプローチであると述べている。
他方、岡野は、「私」と「公」に境界線を引き,私的領域と,シティズンが活動する場が公的領域を峻別してきたことに問題が孕まれていると指摘する。岡野は、これまでのシティズンシップ論は,たとえば,「子どもたちに心配りを払う母親の必要性」と「自立したシティズンという価値」が対となって構造化されている。このような「私」と「公」が対となって構造化されるシティズンシップ論においては,自立したシティズンは,一定のものたち(例えば母親たち)を二級市民へと囲い込み続けると批判した(岡野2009)。加えて,これまでのシティズンシップ論は,市民が自律的な存在であることを前提として,「自立」が強調されていることであり,「自立」を前提とすると「普遍的な正義」を守る原理や規則を遵守することが「市民の責任」となってしまう。つまり,具体的な市民一人ひとりに対する応答ではなく,一般的な原理・規則の遵守が強調され,具体的な他者に対する無関心が醸成されてしまうと批判する。(岡野2009)。岡野は,責任はつねに関係性の中でこそ新しく生まれてくるのであるから,ヴァルネラブルな者をケアする責任を社会の中で分有し,ケアが必要な者が放置されない仕組みが必要であると論じている(岡野2009:262-272)。これらをふまえた家庭科の「家族」の授業が構想されなければならない。