日本土木史研究発表会論文集
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豊川の歴史
山本 廣次
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1983 年 3 巻 p. 8-15

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抄録

中央構造線は、天竜川を平行に南下し、渥美帯島から西に九州まで延びております。豊川は、その構造線にそって、愛知県東部を流れる流域面積721km2の一級河川である。洪積世時代に、基盤の第三紀層を貫いて鳳来寺山が噴出し、付近一帯が1000m級の準平原を構成した。そのため、三河湾に流入していた天竜川A= 4900km2は反転して南方に突出、豊川は分離して現在の河状になったと考えられる。天竜川の流変で上流域は幼年期の地形、豊橋港の浚渫礫は赤石系、伊良湖の中山の残留地下水も天竜系だそうだ。
中央構造線に沿って発生した道路は、塩の道として上さから開け、縄文文化は北から、弥生文化は西から影響をうけ、豊川は、言語・風俗・習慣・食生活など、日本の東西文化の交接点であるといはれる。
平安時代には、豊川の下流は、飽海川の一里の渡しで東海道随一の難所、志賀須香を歌枕に、多数の歌が万葉にのっている。元亀・天正の戦国時代には、豊川を中心に今川・武田・織田・徳川の興亡が行なはれ、豊川は江戸と都の中間に位して交通も盛んであった。
豊川は、台風の通路に当るため、洪水流量が非常に大きく、流域の林相は良好で降雨量も豊かであるが、渇水量は異常に少さく干魍が起り易く、慣行のかんがい面積は、流域面積の1/34に過ぎない。豊州の絵水は徳川時代に始まり、日本でも代表的といはれる9ケ所の霞堤と1ケ所の越流堤が工夫され、明治37年の大洪水は、絶妙な治水効果があった。霞堤内の堆砂による機能の低下に伴い、明治・大正時代に2回の河川改修が行はれ、更に豊川の放水路は昭和40年に完成した。
天竜川に佐久間ダムの設置を機に、豊川用水事業が、昭和43年に完成し、豊絹流域外の渥美半島と蒲郡・湖西地区の上・工・農水に補給され、受益地は大きく発展し、香川・愛知用水と共に立派に成功した。豊川の流域は、日本の中央に位し、気温温暖、交通は至便であるが水資源が不足し、これといった産業、特に工業の発展がない。豊川用水は、天竜水系からの分水で、絶対量が制約され、受益者は増量の希望が多い。豊川は放水路は完成したが、計画洪水量が増大し、上流で洪水をカットする必要がある。
幸に、豊川上流には絶好のダムサイトがあり、ここにできるだけ大きなダムを設置すれば豊川の治水は完壁となり、渇水補給も容易となり、現在の用水路を利用して、人口200万人の大三湾市となり、豊川の水資源が日本の国力に大きく寄与できると想定される。

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