土木史研究
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宇治川と宇治平等院
松浦 茂樹
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キーワード: 鳳凰堂, 河川環境, 宇治川
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1990 年 10 巻 p. 169-174

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抄録

天下の名刹・宇治平等院鳳鳳堂の建築形態は、宇治川の氾濫あるいは湛水に備えたものではなかったかとの仮説を述べるものである。
1053(天喜元)年、藤原頼通によって落慶供養された鳳凰堂は、中堂とその左右にのびる翼廊と尾廊をもっている。翼廊は楼造で下層は吹放しとなっており、上層には高欄がめぐらされているが、その梁は低く人が立って歩くことはできない。純粋に形を整えるために造られたものと評価されているが、この吹放しの翼廊は河川技術からみればピロティ様式の建物である。
平等院は宇治川のすぐ辺りにあり、鳳凰堂の前面にある園池には、宇治川から自然取水された水が入っていた。また往古の河床高、氾濫状況、築堤の状況から判断して、洪水で宇治川の水位があがれば、園池の水位もそれに従って上昇していた。その高さから見て中堂が水に浸ったことはないであろうが、翼廊部も含めてその回りは出水時には湛水していたと考えて間違いない。水に浮かぶ阿弥陀堂であり、翼廊はこれに億えてピロティーにされたと判断するのである。
さて、出水時は上にみた通りであるが、平常時にも翼廊部は水に浸り、そこを舟が行き来したと考えても物理的には可能である。頼通は自分の邸宅である高陽院で、寝殿の回りの池・堀割を大きく造り、大きな舟が行き来できるようにしていた。この形態は高陽院のみであった。頼通がこの癸想を平等院にも応用した、と考えてもおかしくない。水上に浮かぶ宗教建築物、それは1168(仁安3)年ないしその翌年、平清盛によって造営が完成した海に浮かぶ厳島神社へと連想させていく。

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