抄録
乳腺は、放射線によってがんが誘発されるリスクの最も高い組織の一つである。乳腺における組織幹細胞の存在は、マウスの乳腺上皮細胞を他個体に移植すると乳腺が再生されるというDeOmeらの実験(1959)以来、古くから認識されていた。組織幹細胞は、組織内に長期間存在し、その間に膨大な数の子孫細胞を生み出す細胞である。したがって、組織幹細胞が放射線にさらされると、幹細胞自身やその子孫細胞ががん化するリスクも高まると推測される。これが本当であれば、急性被ばくと遷延被ばくによるがんリスクの違いや、被ばく時の年齢や出産経験などによる乳がんのリスクの修飾効果は、幹細胞の寿命、細胞数、年齢変化等によって説明できる可能性がある。1970年代から90年代にかけてKelly Cliftonらは、急性単回照射した乳腺上皮細胞を他個体に移植する定量的実験系を駆使して一連の研究を行った。そして、一定の増殖能を有する前駆細胞が照射後に一定割合で生存し、これががん化する可能性を示唆した。しかし、幹細胞や前駆細胞を先験的に単離する手法が存在しなかったため、直接的な証明は難しかった。2006年にマウスの乳腺幹細胞の表面抗原による単離法が開発されると、乳腺の幹細胞・前駆細胞に関する研究が飛躍的に加速した。乳腺幹細胞の子孫の一つとして内腔前駆細胞が同定され、これが基底様乳がんと呼ばれる特定のサブタイプの乳がんに進展するという証拠も集まってきた。その他いろいろな知見を踏まえてCliftonらの実験結果を再解釈すると、内腔前駆細胞又はそれより上位の幹細胞・前駆細胞が放射線を受けることが乳がんの原因になる、という状況証拠であると解釈できる。今後は、この仮説を直接的に証明することが課題である。