日本重症心身障害学会誌
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シンポジウム1:大地震・大雨など大災害時の支援のあり方
熊本地震に遭遇して
岩﨑 智枝子
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2020 年 45 巻 1 号 p. 43-45

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抄録

Ⅰ.はじめに 集中豪雨や台風など、今までに経験したことのないような甚大な被害の災害が多発する昨今、災害の中でも地震は何の前触れもなく突然襲ってくる。素早く非難することのできない重症心身障害児(者)(以下、重症児(者))およびその家族にとって、死をも覚悟する恐ろしい一瞬である。 平成28年4月14日午後9時半に、前震と言われた震度7の強震に続き、翌16日午前1時半には、本震とされる震度7以上の激震に見舞われた。熊本県にこんな大きな地震が襲来するとは誰も予想していなかった。我が家の次男は、生後4か月半で化膿性髄膜炎を患いその後遺症で水頭症も併発し、重症児(者)としての人生を余儀なくされたが、多くの方々に支えられ充実した人生を全うし、地震発生の2か月前に内因性心臓死との診断で、33歳で他界した。四十九日の法要を無事終え2週間後の大地震だった。 今回は「たんぽぽの会」の会員の避難状況等について、地震後に実施したアンケート調査(33名から被災したとの回答)を元に述べる。 「たんぽぽの会」は、全国重症心身障害児(者)を守る会 熊本県支部在宅部の位置づけで、重度の知的障害と重度の肢体不自由を併せ持った在宅で暮らす重い障害の子どもたちの幸せを願って活動する親の会である。平成2年に発足し、会員は県内各地に点在し災害当時55名在籍をしていた。4歳から42歳までの重症児(者)家族で、半数は医療的ケアを必要としている。 1.熊本地震発生直後 <会員の声> ア.障害の子は、咄嗟に自力で避難することができないので、車中に連れ出すのが大変だった。 イ.身動きできず、子どもを安全に守るので精一杯だった。 ウ.主人と二人で子どものベッドの上に覆いかぶさった。 エ.食器が子どもの近くに飛んで来て危機一髪だった。まずは命を守ることが最優先ということが身に染みた。 2.避難状況について 本震は真夜中であり、車中に逃げ込み一夜を明かし、その後、実家や親戚を頼ったり、施設や支援学校に避難したり、そのまま車中で数日過ごすなど、状況に応じて行動している。 1)避難入院……(9名) 施設・病院で必ず1人付き添うことが条件。小さい兄弟児のいるご家庭や他に介護の必要な方がいるご家庭は、避難入院をしたくてもできなかった。 ア.子どもがパニック状態になり、医療的ケアの必要な介護は無理と判断し、避難入院をお願いした。受け入れ病院が増えることを願う。 イ.呼吸器があるので、くまもと江津湖療育医療センターに受け入れてもらわなければ、行くところがなかった。安心して避難できる病院や施設の確保が大事だと心底思った。 ウ.息子は人工呼吸器を使用しているので、停電の後自家用車で災害避難の登録をしている病院に直行した。 2)車中泊……(1週間以内10名、1週間以上2週間以内5名)・自宅の駐車場や一次避難所の駐車場。 ア.夜なかなか寝なかったり、ワーワー声を出したりと周りの方への迷惑が気になり、近くの避難所には行けなかった。(複数同意見) イ.一般的な避難所は最初から無理と思っていたので、行かなかった。 3)特別支援学校……(5名)家族全員の受け入れ可能。 ア.避難する場所は、娘(障害児)ときょうだい児のことを考えて、学校しかないと思った。 4)自宅……(5名) ア.水とガスは止まったが、電気はあったので自宅で過ごせた。 イ.建物に損壊がなかったので、自宅で待機。直ぐに逃げられるよう、1階のリビングで皆で過ごしていた。 ウ.今回は家に大きな被害がなかったこと、停電しても直ぐに復旧したこと、食料がある程度あったので、家にいることができた。 5)一般避難所……(2名) ア.避難所ではおにぎりやアルファー米なので、おかゆやペースト食なども必要と思った。 イ.行政は何もしてくれなかった。自分の子どもは自分で守らなければと強く感じた。11日間、体育用マットの上で過ごした。その後福祉避難所に移り17日間過ごした。 福祉避難所……一次避難所等を保健師等が巡回し、避難者の心身の状態などを確認した上で、受け入れ施設と調整を行う→重症児(者)は最初から福祉避難所でなければ難しい。 3.地震発生から、その後の生活 1)ライフラインの停止 停電は数時間で復旧したところが多かったが、断水の復旧には1・2週間かかった。 ア.停電がなかったので、避難所には行かなかったが、断水が困った。気管切開をしていて、清潔に保てるか心配だった。 イ.水道・ガスの復旧には2週間くらいかかった。我が子はミキサー食。水が出ないと食事の準備や入浴ができない。 ウ.断水が続いたため、なかなかお風呂に入れてやることができず、清潔面を保つことの難しさを感じた。 2)支援物資 県支部からの要請に対し、全国重症心身障害児(者)を守る会、重症児施設協会からの迅速な対応。 また、重症児施設勤務の医師(松葉佐先生)が「日本小児学会重症心身障害児(者)在宅委員会」にネットで依頼。受け入れ先として、久留米大学に協力依頼。全国から集まった物資を松葉佐医師がトラックに同乗して、くまもと江津湖療育医療センターに運んだとのこと。施設の外来ロビーは支援物資で山となった。在宅会員は大いに助かった。 3)人的支援 大地震発生から数日で他県から小児科医師や看護師等が応援で熊本入りし、直ぐに会議を開いて状況把握や必要な動きの確認を行い動かれた。大変有難く心強さを感じた。また、重症児施設勤務の医師(松葉佐先生)にも支援に加わっていただき、医療的ケアの必要な子どもたちの避難先に出向かれたり精力的に動いてくださった。周産期医療に力を入れている「熊本市民病院」が被災し、受け入れ不可になったことで、重い障害の我が子の体調管理に不安を感じていたご家族にとって、先生が出向いてくださったことは大きな安心感を得られたようだ。 4.守る会の動き 全国重症心身障害児(者)を守る会本部では、各県支部に義援金を呼びかけた。それに応える形で、熊本県重症心身障害児(者)を守る会では、全会員(401名)の家庭に被害状況調査を郵送した。結果145名が家屋の全壊や一部損壊などの被災との回答を得た。後日、各県支部から寄せられた義援金は被害状況に応じて本部から各家庭に振り込まれた。 在宅部たんぽぽの会では、地震発生3日後に“身体拭き”と“おしり拭き”を購入し1セットにして、各在宅家庭に配布した。    Ⅱ.熊本地震に遭遇して痛感したこと ア.発電機は音も煩く手入れも大変そうだったので、車で使うインバーターを買おうと思った。 イ.日頃から安心して避難できる病院や施設の確保が大事であると思った。  ウ.避難できる場所が確定していれば、そこへ避難できる。各地域の指定された避難所は体育館が多く、硬い床は障害児には困難、安心安全に避難できる場所が欲しい。 エ.福祉避難所で安全に過ごせる素早いネットワークが欲しいと強く感じた。 オ.日頃から地域の方とつながりを持ち、お互いに気遣い合える関係を築くことが大事だと思った。 Ⅲ.まとめ 災害が大型化している昨今、自分(重症児(者)共々)の身は自分で守るの意識を持ち、家庭における災害時への備えとして①ベッドや寝室の近くには落下や倒れてくる危険な物を置かない。②家具の転倒防止。③落下物対策やガラス飛散防止。また、被災後の生活の確保として①食料や水などの非常用持出品のリストの作成そして準備、②電源の確保、③避難先(できれば2~3か所)の確保、医薬品・吸引機などの医療器具・自家発電機の備えが大事である。そして、何より日頃から地域住民とのコミュニケーションが大事であることが会員の体験から明らかとなった。

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