抄録
コムギは現在世界中で最も多くの人々が利用している栽培植物である。コムギの歴史は古く、地中海東岸からイランのザグロス山脈に至るいわゆる肥沃な三日月地帯に点在する8000年以上前の遺跡から炭化種子が発見されており、この時期には既に利用されていたことを窺わせる。これまでの研究によると、この地域において豊かな多様性を示す野生植物から人類にとって重要な一群の栽培植物が生まれたことが明らかになっている。中でも、栽培型コムギやオオムギの登場によって人々の生活形態は画期的に変化し、やがてこの地域に一大文明をはぐくむ基盤となったと考えられる。コムギ属 (Triticum)は、遺伝学的に2倍性、4倍性、6倍性のいわゆる倍数性系列をなす種群から構成されている。6倍体以外にはそれぞれ近縁野生亜種が存在し、人類による栽培化によってその各々から栽培種が起源したと考えられているが、いつ、どこで、どのようにして生まれたのか依然として謎が多い。栽培化によって変化した主な形質は、登熟時に穂がバラバラになるかどうかという脱粒性、種子の形、1穂あたりの種子数、植物体の草型、休眠性など多岐にわたるが、その多くがいわゆる量的形質の遺伝様式を示し、遺伝学的解析は容易ではない。我々は最近、葉緑体DNAの多型をもとに母系解析を行い、「どこで?」に対する一つの答えを得た。本稿ではこの結果を中心にコムギの栽培化について考察する。