社会学評論
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マックス・ヴェーバーの近代認識
「事象化」 (Versachlichung) の理念像に即して
横山 敏
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1975 年 26 巻 2 号 p. 36-52

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抄録
本稿は、ヴェーバーの近代認識を検討している。ヴェーバーの近代論をマルクスとのかかわりで論ずるうえで、かれの「事象化」 (Vrsachlichung) 概念をまずもって検討することは、きわめて重要であるように思われる。
一、ヴェーバーは、次のように、人類史の転換について論じている。プロテスタントによる被造物神化の拒否は、資本主義の精神の形成にさいしての一つの決定的要因となった。そのことを通して、人格的諸関係 (die persönlicehe Verhältnisse) は突破され、使命として合理的職業労働が選択されたのである。そうした労働は、事物に即した行為、態度を特徴とするのであるが、同時に、それは、社会的な事物的諸関係 (die sachliche Verhältnisse) を生み落すところとなった。
二、ヴェーバーは、近代資本主義を二段階に区分している。その第一段階は、プロテスタンティズムの禁欲主義と「独自の市民的エートス」をその特色とする。資本主義の向上期において、市民の行為は、意欲して事象化を推進する。第二段階においては、客体 (官僚制) は、主体から自立し、いかなる力をもってしてもそれを破壊できないものとなる。この段階で人間は、人格的に意味の喪失に陥る。ヴェーバーは以上のようにいうが、それに対して、マルクスは、資本主義の向上期にあっても、人は事物的諸関係 (商品=貨幣関係) の担い手であり、人々が第二段階と同様に事物への隷属に陥っていると見做す。
三、ヴェーバーは、事物の人間に対する非合理的専制を突破できないといっている。経済的領域にかんしていえば、この事態に対するヴェーバーの批判は、資本主義の精神の存在いかんにかかっているから、その批判は、本質的なものでないと思われる。マルクスは、プロレタリアートに高度の生産諸力と普遍的交通の領有可能性を見いだしているが、このように、マルクスが物象化として止揚可能性を見いだしたものを、ヴェーバーは、合理化の宿命としてひきうけたのだと、われわれは考えることができる。
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