日常世界における「開かれた可能性」の問題を手がかりとして、今日しばしば「保守的」だとされるシユッツの社会学理論のうちに、なおシステム批判を内在させた理論的可能性を問おうとするのが、本稿の課題である。もとよりそれは、かつての「主体主義」的なシュッツ解釈に立ち戻ろうとするものではなく、むしろ「保守的」だと批判される日常世界の「類型性」の問題のなかに、今日なお論じられるべきシュッツの理論的可能性の中心を見いだそうとするものである。
従来の批判が見落としてきたのは、シユッツにおいて日常世界は、閉鎖した意味世界として方法的に構成される社会科学の世界に対して、意識主体にとっての「開かれた可能性」の世界として論じられるということである。「類型性」といい「自明性」といい、それは意識経験の類型的閉鎖性 (「保守性」) を意味するものではなく、むしろ日常世界における主体性の可能性の条件なのである。シュッツにおいて日常世界は、ほんらい社会科学の実証主義的な自己理解とともに、「主体主義」的な主体理解を批判するところに結像しているのであり、そこで示される類型性 (客観性) と主体性 (自由) との媒介性の質が、かれの理論の現代的な可能性と課題とを規定していると思われる。