抄録
有賀喜左衛門が若いころ白樺派の一員であったこと、その後柳田国男と出会い、民俗学をへて農村研究へと進み、日本農村社会学の創設者の一人となったことは、よく知られている。しかし西欧的な個人主義への憧憬を基調とする白樺派からその対極にある柳田民俗学への転進は、まだヨーロッパ文化への憧れの強かった大正末期には、きわめて特異な出来事であった。そのギャップの大きさを考えると、この転進は有賀の学問形成史における一つの「飛躍」であったと言ってよいであろう。学説史の第一の課題は、画期となった「飛躍」の連続面と不連続面の二つを、統一的な視点で分析することにあるといわれる。本稿では、有賀喜左衛門の日本文化研究の出発点を、この二つの側面から再検討してみたい。