抄録
『吾輩は猫である』の作家、夏目漱石(1867-1916)は唯一の美術展覧会評『文展と芸術』(1912年)の冒頭に「芸術は自己の表現に始つて、自己の表現に終るものである」という言葉を書いた。漱石はその頃から官設公募展覧会「文展」に落選した画家には寛容な態度を示し、欧米留学から帰国した画家たちの作品には厳格な眼差しをむけている。
京都で洋画を学んだ安井曾太郎(1888-1955)はパリ留学(1907-1914)でセザンヌ、エル・グレコなどの影響を受け第1次世界大戦勃発のため1914年帰国、翌1915年の第2回二科展「特別陳列」(個展)で留学の成果を発表した。漱石はフランスのヴェトゥイユで安井の描いた風景画《麓の町》を購入、自宅(漱石山房)の客間に飾った。《麓の町》は晩年の漱石の机からみえる客間の正面にあり、客間には彼の私的な文芸サークル「木曜会」の若者が集った。本稿では、漱石と木曜会の津田青楓、小宮豊隆の安井への支援、また「特別陳列」の準備とその反響を紹介する。