2025 年 24 巻 p. 198-204
本稿は、『シリーズ 戦争と社会5』を手がかりに、日本社会における〈記憶〉と〈追悼〉の現在地を整理・記述し、分析するものである。なお、「現在地」というときに念頭に置いているのは、具体的には、ロシアによるウクライナ侵攻を受けたG7広島サミットにおける「献花」「黙禱」や、イスラエルによるガザ地区への侵攻とホログラムを導入したホロコーストの記憶継承の試みとの、時代的並行性である。
具体的な問題意識は、次のふたつである。第一に、ナショナルなものであれ、トランスナショナルなものであれ、記憶の場に参与する諸アクターが過去の戦争の記憶を再利用可能なかたちで現代的にアレンジし、「追悼・慰霊」行為と交錯する際、そこにはどのような意図が錯綜しているのか? 第二に、意図せざる意図があるのだとすればどのようなものか? というものだ。
これらの問いに向き合うために踏まえておくべきは、次の論点である。それは、「追悼・慰霊」という行為の現代的論点として、「死者」の他者性が二重の意味で失われつつあるという特徴である。第一に、政治エリートたちが設定・運営する「追悼・慰霊」の場における「死者」の活用。第二に、テクノロジーの応用による「死者」の「再現可能性」の確保(生前の情報をデータ化する取り組み)と実際の「再現」。両者が独立した問題ではなく、重なって表れるところに、「追悼・慰霊」の現在地があることを確認したい。