マーケティングジャーナル
Online ISSN : 2188-1669
Print ISSN : 0389-7265
マーケティングケース
IoTデータを利用した顧客維持活動
― リコー@Remoteの事例 ―
河股 久司守口 剛
著者情報
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2020 年 39 巻 3 号 p. 125-136

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Abstract

近年,データを活用したマーケティング戦略を行う企業は増加の一途をたどっている。顧客の理解のために,顧客の製品利用に関するデータを活用した事例も存在する。本稿では,顧客の製品利用データを活用して効率的な顧客維持活動を行っているリコーに焦点を当てる。リコーは,「@Remote」と呼ばれる複合機の利用に関するデータ収集システムを活用し,効率的な顧客維持活動を行っている。インタビュー調査を通じて,複合機利用データを活用した既存顧客維持活動の成功の背景に,それまで属人的であった営業担当者のノウハウや知識が活かされていることなどが明らかとなった。このことは,データの利活用に際し,データと顧客をつなぐ架け橋となる営業担当者の役割の重要性を示唆している。

Translated Abstract

In recent years, many companies have used data-based marketing to understand customer insight. In this article, we focused on Ricoh, which uses customers’ data to conduct efficient customer retention. We revealed that Ricoh has been carrying out efficient customer maintenance activities using a data collection system called “@Remote” related to the use of MFPs (Multifunction peripherals). In addition, through interview surveys, we confirmed that the knowledge of sales representatives was aggregated and utilized together with the data. This aggregation contributes to the success of customer retention activities. This article indicates the importance of the role of sales representatives that serve as a bridge between data and customers when companies conduct data-based marketing.

図1

@Remoteのロゴと@Remote導入機

I. はじめに

企業は,既存顧客の維持と新規顧客の獲得という2つの活動を通して自社の売り上げや市場シェアの拡大を図る。しかし,限られた人員と時間の中で既存顧客の維持と新規顧客の獲得を同時に行おうとすると,いずれかに偏ってしまう場合が多いと考えられる。顧客維持のために既存顧客の元を訪問し続ければ,新規顧客の開拓を行う時間が乏しくなる。一方で,新規顧客の開拓ばかりに目を向けていると,既存顧客への対応がおろそかになり,結果として既存顧客が離れていくだろう。このようなジレンマを抱える企業は少なくない。特に,市場が成熟し,多くの顧客に製品がいきわたってしまうと,市場シェアの奪い合いが発生する。企業の収益を上げていくためには,このジレンマを克服し,既存顧客を離反させずに新規顧客を開拓する必要があるだろう。

このようなジレンマは,特にBtoB市場において顕著にみられる。なかでもOA機器に関しては,各企業・事業所ごとにPCや複合機は十分に取り揃えられており,市場が成熟している。そのため,既にOA機器を導入している企業・事業所をめぐって,競合企業同士で顧客を奪い合うという状況が発生しやすい。OA機器メーカーは,自社の収益を確保するために,既存顧客の維持と新規顧客の獲得の双方に注力する必要がある。

しかし,先に述べた通り限られた人員と時間の中で,既存顧客を維持しながら新規顧客を開拓することは難しく,いずれか一方の戦略にのみ偏ってしまうケースが多い。特に,新規顧客の開拓は,既存顧客の維持よりも多くのコストが発生するものの,市場シェアを拡大することができるため,既存顧客の維持よりも重点が置かれることがある。一方で,新規顧客の開拓に比重をかけすぎると,既存顧客へのアプローチが少なくなってしまう。とはいえ,現在の市場シェアを維持するためには,既存顧客をいかに維持し,ブランドスイッチ率を下げることも極めて重要である。そのため,新規顧客獲得活動を重視する企業では,限られた時間の中で既存顧客へのアプローチをいかに効率的かつ効果的に行うことができるかが重要な課題となる。

そこで,本稿では,新規顧客獲得活動を行う傍らで,既存顧客への適切な訪問タイミングを顧客のデータから予測し,顧客維持率を向上させた例を検討し,その成功要因を探る。具体的には,リコーの複合機リモート管理サービス「@Remote」を活用した効率的な顧客維持活動について検討する。@Remoteは,顧客との契約に基づき,顧客の複合機利用状況や複合機の状態を遠隔で情報取得ができるシステムである。このシステムは,複合機というモノをインターネットに接続し,複合機を管理するだけではなく,利用状況などに関する情報収集を行うIoT1)(Internet of Things)技術によるデータ活用といえよう。本稿では,IoT技術によって取得されるデータを生かし,既存顧客の維持活動を行った事例を取り扱う。

なお,本稿の構成は以下のとおりである。続く第2章で,リコーの企業紹介とリコーの主力製品である複写機や複合機の系譜を紹介する。第3章では,BtoBを対象とした複合機のビジネスモデルについて概略を説明する。第4章では,2008年に起きたリーマンショックがリコーにもたらした課題について述べる。第5章では,前章で挙げた課題を克服すべくリコーが取り組んだIoTデータによるマーケティング活用事例を紹介し,第6章でその効果を述べる。第7章で,本事例の成功要因を考察し,最後の第8章でまとめを行う。

II. オフィス事業の効率化に特化したリコー

リコーの来歴は1936年にまでさかのぼる。理化学研究所で発明された製品の工業化を目的に発足した理化学興業から独立した理研感光紙株式会社がリコーのはじまりである。1938年に理研感光紙株式会社は理研光学工業株式会社に社名を改め,1955年に国内初のジアゾ複写機2)「リコピー101」を発売した。事務作業の合理化を目的にリコピー101は開発されたこともあり,以降オフィスにおける事務作業の効率化を企業の目的に据え,複写機の開発や製造を手がけるようになった。その後,1963年に理研化学工業から現社名であるリコーに社名変更を行った。1977年には,OA(オフィス・オートメーション)を業界で初めて提唱し,OA機器の中で重要な位置を占めるオフィス用コピー機(複合機)を精力的に開発・発売した。なかでも,1982年に発売を開始したリコピーFTシリーズは,拡大・縮小機能を備えた普通紙コピー機であり,発売からわずか10か月で10万台を売り上げた。これは,1982年の静電式複写機の販売台数が137万台程度3)であることからすると,1種類の複写機で年間の複合機販売台数の10%近くを販売したことになる。その後も,リコーの複合機の代表格となるIMAGIOシリーズを開発・販売し,数多くの複合機を市場に導入した。2001年には複合機を使用しない時間の待機電力を低電力で保ち,使用時には即座に使用できるというQSU(Quick Start Up)技術を用いた「imagio Neo 350シリーズ」が,OA業界で初めて省エネ大賞「経済産業大臣賞」を受賞するなど,その高い技術力を発揮した製品が製造・開発されている。その後,現在に至るまでOA機器の開発・製造・販売を事業の中心に置いている。

2018年3月期現在,リコーの売上高(連結ベース)は,2兆円を超えており,グループ企業数も200を超える。売上を分野別にみると,オフィス向け複合機や複写機,プリンターの生産・販売・リースサービス・リサイクルなどを行うオフィスプリンティング事業が55.4%,サーバーやネットワーク関連機器の販売・サービス,サポートなどを行うオフィスサービス事業が21.7%となっており,この2つの事業でリコー全体の売り上げの75%を超えている4)。リコーはOA機器以外にも,家庭用デジタルカメラなどの製造・販売を行っているが,先に述べた通り,オフィスプリンティング事業とオフィスサービス事業の2つの事業が,売り上げ全体の75%以上を占めており,リコーは,オフィス向け,つまりBtoB向けの製品やサービスの販売を企業の軸となっている。

III. 複合機のビジネスモデル

一般に,企業が複合機を導入する際,顧客と複合機メーカーおよび販売会社は2つの契約を締結する。1つ目は販売契約,2つ目は保守契約である。始めに販売契約であるが,次にあげる3つの方法のいずれかを採用し複合機を導入する。1つ目は,複合機メーカーから複合機を直接購入するという方法,2つ目は企業がリース会社とリース契約を結び,長期的に複合機をリースするという方法,そして3つ目はレンタル契約である。レンタル契約はリース契約と基本的な考え方は似ているが,契約期間が短く,数か月から最長で3年程度である。レンタル契約は主として,建設工事現場事務所や選挙事務所,国際会議などといった,短期間で複合機が必要な場合に締結される契約である。上記3つの方法があるが,多くの企業はリース会社とリース契約を行い,複合機を導入する。ここでは,最も利用が多いリース契約に基づく複合機利用について説明する。

リース契約によって複合機を利用している企業は,リース料をリース会社に支払う。それは,企業が複合機のリース契約を結ぶ際,リース会社が複合機を所有しているためである。そもそも,複合機はいくつかの企業を経て,顧客企業のもとにリースされる。まず,複合機の生産を行っている複合機メーカーは,複合機本体を販売会社に販売する。次に,販売会社は複合機をリース会社に販売する。この時,複合機の所有権はリース会社が保有している。そして,顧客企業はリース会社と契約を結び,リース会社が保有している複合機を借りるのである。そして,その賃借料としてリース会社に月額のリース利用料を支払う。

このようなリース契約は顧客企業にとっても,複合機メーカーにとってもメリットがある。顧客企業にとっては,複合機を直接的に所有するわけではないので,初期投資をかけることなくサービスを利用できる点がメリットとして挙げられる。特に複合機などの高額な製品の場合は,初期投資を必要としないことは大きな利点になると考えられる。また,複合機などの高額な機器を購入した場合,企業の固定資産として計上される。そのため,固定資産税が発生したり,耐用年数に応じて減価償却を行う必要がある。しかし,リース契約の場合は,リース会社が複合機を保有していることになるため,企業側が固定資産税の支払いや減価償却の計上を行う必要がなくなる。また,複合機メーカー側にとっても,顧客企業がサービスを利用するためのハードルが低くなることは,顧客の新規獲得や機種変更時の継続利用を促す効果がある。

次に保守契約であるが,大きく分けて2つの契約がある。1つ目はスポット方式と呼ばれ,点検・修理・部品交換など顧客の要望に応じて毎回有償にて実施する契約である。2つ目は顧客企業が複合機を安定した状態で使用できるように,保守要員が複合機設置先である顧客企業へ訪問し,定期保守(点検・調整)を実施する対価として印刷枚数に応じた料金を課金する契約である。この契約は印刷頻度によってさらに契約形態が細分化され,印刷頻度が高い場合にはカウンター方式,印刷頻度が低い場合にはキット方式(トナー方式)と呼ばれる。リコーの複合機を利用している顧客の大多数がカウンター方式の契約を選択している(図表1)。

図表1

複合機導入における契約形態

筆者作成

カウンター方式で契約した場合における保守料金は2段階構造となっている。1段階目は月額の基本料金である。これは印刷の有無にかかわらず課金されるものである。そして,2段階目は従量課金の部分である。複合機メーカーは,各企業に対して印刷枚数に応じた料金を請求しており,この従量課金部分が,複合機メーカーの利益の大きな部分を占める。

複合機ビジネスは,保守契約という形式をとることで,複合機そのものを売るのではなく,印刷機能などの便益を安定的に稼働させるというサービスを消費者に提供している。このような製品のサービス化(Product as a Service [PaaS])の事例は数多くあるが,その1つとして複合機ビジネスも挙げられる。

複合機メーカーと企業の間のリースおよび保守契約の関係をまとめると図表2のようになる。複合機メーカーは,複合機を販売会社へ販売し,販売会社はその代金をメーカーに支払う。販売会社がさらにリース会社へ販売する。そして,リース会社は顧客企業にリースを行い,月額の利用料を顧客企業はリース会社へ支払う。一方で,印刷料金は,複合機メーカーが直接カウンター料金を顧客企業に請求し,顧客企業は複合機メーカーに対して支払いを行う。

図表2

リース契約における複合機メーカーと顧客企業の取引関係

(筆者作成)

複合機の継続利用は,複合機メーカーにとって大きな収益を生み出す要因となる。継続的な利用によって,恒常的に保守契約による保守料金を収入として得られるからである。保守料金は,その大部分が印刷枚数に応じた従量課金であるため,印刷枚数が増加するほどに複合機メーカーの収入が増えることになる。つまり,いかに印刷枚数を増やすかが,複合機メーカーの収益に直接影響を及ぼすといえる。印刷枚数を増やすためには,個々の複合機当たりの印刷枚数を増やすか,市場内における自社製複合機の台数を増加させることが考えられる。前者は複合機メーカーの取り組みで増加させることは難しい。一方で,市場内における自社製の複合機の台数は,複合機メーカーの営業戦略によって増やすことができる。つまり,複合機メーカーにとっては,自社製の複合機を多くの企業で導入・利用していることが重要であり,それが複合機メーカーの売上や収益を伸ばすことにつながる。そのため,市場における自社製複合機の台数を増大させるためには,既存顧客を維持するだけではなく,新規顧客を取り入れる必要があると考えられる。

IV. 国内営業部門が抱えていた問題

第2章で述べたように,オフィスプリンティングなどのBtoB事業を企業の軸としているリコーにとって,2008年のリーマンショックの影響は大きかった。顧客企業が倒産や事業の縮小などに見舞われ,その結果,複合機の需要が落ち込むようになった。日本国内における複合機・複写機の年間出荷台数を見ると,2008年が62.5万台,2009年が52.2万台,2010年が55.2万台とリーマンショックを境に大きく減少していた(図表3:棒グラフ)5)。出荷台数が減少することは,日本国内で稼働している複合機の台数が少なくなることを意味する。また,複合機は通常5年程度で新しい複合機と交換されるため,今後5年間は,日本国内に存在する複合機の台数が少なくなることが想定されていた。複合機の出荷台数が少なくなれば,当然ながら,複合機の稼働台数も少なくなり,印刷枚数の総数も減る。印刷枚数が減るということは,印刷料金による収益が減少することを意味する。つまり,リーマンショックの影響は,BtoBを対象とした事業活動を主軸におくリコーにとっては,憂慮すべき問題であった。

図表3

国内複合機出荷台数推移(棒グラフ)とシェア推移(折れ線グラフ)

Source: IDC’s Worldwide Quarterly Hardcopy Peripherals Tracker 2019Q2

・Laser MFP/SFDC, A3, Speed Range A4: 91+ppm excluded

・Copier Shares by Company

リコーは,リーマンショックによって市場規模が小さくなると,売り上げの確保のため,積極的に新規顧客獲得活動を行うようになった。新規顧客獲得は,既存顧客の維持活動よりも受注成約までにかかる時間が長くなる上に,成約率も低い。既にリコーとの取引関係が成立している既存顧客を維持する活動に比べて非常に効率の悪い方法である。しかし,リコーは多くの新規顧客を取り入れることで縮小する市場規模の中で収益を保とうとしていた。とはいえ,営業担当者が1日で回れる顧客先数は限られており,新規顧客先へ数多く訪問することで,いままで訪問することができた既存顧客企業の元へ頻繁に訪問することが難しくなりつつあった。それでも,2011年までは新規顧客と既存顧客への活動バランスを取りながら販売シェアを維持していたが,2012年には減少へ転じた。

このシェアの低下を危惧したリコーは,より高い新規顧客の獲得を目標にしつつ,既存顧客の維持も同時に行う必要性を感じるようになった。しかし,冒頭で述べたように,新規顧客の獲得と既存顧客の維持はいずれかに偏りがちになってしまう。とはいえ,販売シェアの低下を食い止めるためには,新規顧客の獲得を行いながら今いる既存顧客を確実に維持する必要があり,これがリコーにとって解決すべき喫緊の課題となっていた。

V. IoTデータのマーケティング活用

前章で述べた通り,2008年秋に発生したリーマンショックによって,顧客企業が倒産したり,事業規模縮小に見舞われた。事業規模が小さくなることで複合機の需要が減り,複合機市場が縮小していた。そこでリコーは,縮小する市場の中で売り上げを確保すべく,今まで以上に新規顧客獲得活動が重視されるようになり,頻繁に既存顧客の元を訪問することが難しくなっていた。新規顧客獲得活動を行いながらも同時に既存顧客の元も訪問しなければならないという状況にあったリコーは,効率よく既存顧客の元を訪れることができるような仕組みを考案する必要があった。

このような中で,効率的な既存顧客企業への訪問を実現化するために考えられていたのが,複合機利用に関するデータの活用である。もともとリコーは,顧客の複合機利用に関するデータを大量に有していた。それらは,@Remoteと呼ばれる複合機のリモート管理サービスによって取得されたデータであり,リコーは,2004年からブロードバンド回線を用い,顧客先にある複合機からデータを取得していた6)。2013年頃には,@Remoteは日本国内で稼働している複合機の大多数に搭載されており,百万台近い複合機からデータが集められていた。また,取得できるデータも複合機の稼働状況から,紙詰まりの頻度や場所,発生時間,および各種センサー値に至るまで数千種類にわたり,取得頻度も1日に1回という高頻度でデータが取得されたいた。これらのデータは,複合機という「モノ」をインターネット回線につなぎ,情報を取得できるIoTの仕組みを活用し収集されたデータである。IoTの仕組みを活用した@Remoteから取得されるデータは非常に有益なデータであったが,2013年3月までは部門単位で利用されており,トナーの自動配送通知や,複合機の保守点検といった,複合機の品質や利用満足向上を目的にデータが活用されていた。

2013年4月より,@Remoteによって取得されたデータを全社的に活用する方針が決まり,データサイエンティストの体制を整えた。これを機に,@Remoteによって収集されたデータを,マーケティング活動のために利用する機運が高まった。そして,この機運の高まりに合わせ,マーケティングアナリティクスがテーマ化され様々な部門から人材が集められた。彼らは,早速にIoTの仕組みである@Remoteから得られるデータを顧客維持活動のために活用し始めた。そして,顧客のインサイトを@Remoteのデータを通して把握を試みようとしたのである。

IoTデータを活用した事例の1つ目に,機械学習を利用した複合機の買い替え予測モデルの開発が挙げられる。買い替え予測は,いくつかの変数から検討することができるという考えがマーケティングアナリティクスチームにはあった。それらの変数として,複合機導入からの経過期間のみならず,顧客企業からの過去の発注履歴や案件情報などから取得できる設備への投資意欲,過去の購買履歴やカスタマーセンターとの通話記録などマーケティング活動から得られたデータなどが検討されていた。それらの変数に加え,@Remoteから取得できるデータの中から,印刷枚数や印刷方法など機器の利用状況に関するデータや,紙詰まりやパーツの汚損などの故障に関するデータなどを予測モデルの一部に組み込んだのである。

ある複合機の印刷枚数が前年と比べ格段に増えている場合,その複合機を利用している企業の印刷需要が高まっていると考えられる。その場合は,印刷スピードが速い複合機へ買い替えを行う方が顧客企業にとって望ましいだろう。また,スキャン機能を多く利用している企業であれば,文書のクラウド化ができるような複合機を提案すれば,顧客企業はその複合機に興味を持つかもしれない。また,故障についても,故障が頻発しているようであれば,新たな複合機へと買い替えようという思いは高まるであろう。このように,@Remoteから検知される複合機利用に関するいくつかの変数を用い,複合機の買い替えタイミングを予測するモデル(図表4)を作成したのである。

図表4

買い替えタイミング予測モデル

出所:リコー資料より筆者修正

また,買い替えタイミングが近づいている顧客企業がある場合,その顧客企業を受け持つ営業担当者と保守要員に,買い替えタイミングが近づいていることをメールで伝える仕組みを併せて作成した。さらに,電話で企業に営業活動を行う部署にも同一の内容が参照できるようにした。この仕組みによって営業担当者が,自身が担当する顧客企業が買い替えタイミングにあることを容易に把握できるようになったのである。

2つ目のIoTデータの活用として,顧客企業により良い利用方法を提案できる顧客向け提案書と,営業担当者が顧客の状況を確認できる資料(図表5)を自動生成する仕組みを開発した。この提案書と確認資料は,顧客企業ごとにカスタマイズされた内容が記されており,顧客企業の複合機使用状況や印刷枚数の推移,顧客企業にとって最も利便性が高い複合機の案内などが提案書に記載されるようにしたのである。これらの情報をもとに,営業担当者は企業に提案を行い,買い替え需要を創出することができるようになったのである。

図表5

AIスマートツールによって生成される営業担当者向け確認資料(抜粋)

出所:リコー提供

マーケティングアナリティクスチームは,複合機の利用状況に関するデータを収集する@Remoteを活用し,買い替え需要を予測,営業担当者へ買い替え需要のある顧客企業を通知,そして営業担当者による買い替えの具体的な提案,という一連の流れを作り上げた。このIoTの仕組みを活用した一連の流れを,リコー社内では「AIスマートツール」と呼ぶようになった。AIスマートツールによって,いままで見えなかった顧客の買い替えの需要を営業担当者に自動で伝え,効果的に既存顧客の元を訪問できるようになったのである。

AIスマートツールの開発は,マーケティングアナリティクスチームによって行われているが,この開発に当たっては他部門の意見を多分に取り入れているという。中でも,営業部門,特に営業担当者の意見は,予測モデルに採用する変数や提案書に記載する内容に強く反映されている。それは,顧客を理解するためには,データだけではなく,顧客の声を直接聞いている営業担当者の意見も重要であるという理解が,マーケティングアナリティクスチームに存在するからであった。この意見の反映こそがIoTデータを活用したマーケティング戦略において大きな意味を持つと考えられるが,この点についてはのちに詳しく考察する。

VI. AIスマートツールがもたらした効果

AIスマートツールを用いた既存顧客へのアプローチがもたらした効果は著しい。ある国内営業所では買い替え予測モデルを用い,買い替えの可能性が高い顧客に対して買い替えを進めた場合,受注成約率が3倍以上になったという。適切なタイミングで買い替えを勧めることで,成約率が高まった例といえる。さらに,適切なタイミングで顧客訪問ができたことによって,既存顧客のリコー製複合機の継続利用率が前年同期比で10ポイント以上も上昇した営業所もあったという。

また,@Remoteによるデータ活用は,ほかにもメリットを及ぼしている。営業担当者は,提案書を通じて顧客企業の複合機使用状況を把握できるようになった。そのため,顧客の元を訪ねる前に顧客の使用状況を把握し,訪問時に,利便性を高める複合機の利用方法を提案できるようになったという。2013年当時マーケティングアナリティクスチームに所属していた福住氏は「利便性を高める使用方法を顧客企業へ伝えることで,顧客がリコーの複合機を長く使おうと思ってくれることを最も重要な要件であると考えている。他社製品へスイッチされると,リコーの収益は0になってしまうが,長期的にリコーの複合機を使ってもらえる関係を築くことで,長期的な収益を確保できる」としている。

さらに,適切な買い替え予測に基づいて買い替えを提案し,実際に買い替えが行われることは,既存顧客の満足度を高める要因にもなっている。複合機を長期間使い続けていると,消耗品の摩耗が激しくなり,紙詰まりや故障の機会が増える。しかし,適切なタイミングに買い替えを案内し,新型の複合機を導入することによって,故障の機会の減少につながる。故障の機会が減少することで,顧客企業は快適に複合機を使用し続けることができ,顧客満足がより高まったという。

@Remoteを活用した適切な買い替え予測モデルを利用することで,既存顧客へ適時適切なアプローチが可能となった。また,それ以外の時間を使い,新規顧客のもとを訪ねることができるようになった。その結果,@Remoteによって取得できるデータをマーケティング活用し始めた2013年以降,徐々に出荷台数シェアを回復させ,2014年以降は,2011年のシェア率とほぼ同水準の26~27%を維持している(図表3:折れ線グラフ)。

VII. 成功要因の考察

ここでは,@Remoteを活用した既存顧客維持活動の成功要因を考察する。成功要因の1つめは,複合機の使用状況に関するデータをマーケティング戦略に生かしたことであると考えられる。これは,IoTデータをマーケティング戦略に活用したと換言することができるが,IoTの概念がさほど普及していなかった2013年から具体的な活動を取り組んでいたところにその成功要因があったと考えられる。IoTが全盛となった今では,さまざまなデータを活用しそこから顧客のインサイトを発掘することの重要性はすでに知られているが,IoTの活用が全盛期を迎える前から,IoTデータを用い,顧客のインサイトの把握に努めた点が,1つの成功要因だと考えられる。2013年当時,マーケティングアナリティクスチームのリーダーを担当していた小野氏も,「@Remoteから取得されたデータを活用することで,今まで以上にお客様を深く理解できるようになった」と述べている。また,それに続けて「お客様を深く理解できるようになったことで,新たな提案ができるようになった」と言う。顧客の目線に立ってものを考え,顧客に価値のある提案を行おうとする顧客志向の重要性は,マーケティングの分野でも古くから取り上げられており(Kuriki, 2012),企業における顧客志向の高まりとビッグデータ利用の関係性が近年論じられている(Lin & Kunnathur, 2019; Yu, Nguyen, & Chen, 2016)。

さらに小野氏は「@Remoteから取得できるデータを見るようになってから,同じ紙詰まりでも,発生した時間帯によってお客様の紙詰まりに対する感情が異なっているのではないかと考えるようになった」と言う。「日中であってもお客様は,紙詰まりに対して業務停止による損害を感じると思うが,残業中や遅い時間に紙詰まりが発生した場合は,更に強く損害を感じていると考えるようになった」と説明してくれた。このように顧客の複合機利用に関する詳細なデータを活用することで,顧客の機微を理解し,より深い顧客の理解を効率的に行うことができるようになると考えられる。顧客志向に焦点をあてIoTの仕組みによって取得できるデータを利用した点が成功要因の1つであるといえよう。

また,AIスマートツールによって自動生成される提案書と確認資料も,顧客の立場に立って作成されていると考えられる。例えば,印刷枚数の増減は顧客企業としては気になる点である。しかし,印刷枚数の増減を顧客企業が逐一確認をしているわけではない。また,複合機の使用頻度も,顧客企業は感覚的にどの程度使用しているかを把握していたとしても,同機種の複合機を利用している他の企業と比較することはできない。これらのような顧客にとって知りたい情報が提案書に記載されていることで,顧客は複合機の利用について理解を深めることができる。また営業担当者にとっても,顧客の使用状況をあらかじめ理解した上で提案を行うことが可能となった。この点について小野氏も「提案書と確認資料の存在が顧客満足に与える影響は大きい。もちろん顧客自身が利用状況を把握できるという点もある。しかしそれ以上に,提案書と確認資料によって,顧客の複合機使用状況を理解したうえで営業担当者が顧客と話ができるようになったことが重要である。」と述べている。提案書や確認資料の例が示すように,顧客の立場に立った提案を行うことができるような仕組みを作り,実践することによって,顧客企業の立場に立った提案が可能となっている。その結果,顧客企業はリコーに対するロイヤルティを形成し,継続的な利用意向を高めていると考えらえる。

成功要因の2点目として,@Remoteによって取得されるデータのマーケティング戦略活用に際し,営業担当者の意見が非常に強く反映されている点が挙げられる。中でも,営業担当者の意見が反映される過程で,営業担当者の知識が共有されたことは注目すべき点である。営業担当者の知識やノウハウの多くは一人ひとりの営業担当者に蓄積されていた。今までは,知識やノウハウが属人化されていたため,いかに有効な知識であったとしても全社的に活用されてこなかった。しかし,@Remoteによって取得できるデータを活用する際に,個々の営業担当者に紐づいていた知識やノウハウも多く取り入れられたのである。これによって,今まで多くの営業担当者が気づかなかった顧客層や,顧客のインサイトに気づくことになった。

小野氏は予測モデル変数の作成や改良に当たって,想定もしない顧客の存在があることを,ある営業所の所長から教わったという。故障や不良が発生していないにもかかわらず,リース契約期間が満了するよりも,かなり前に買い替えを行う顧客層があるというのである。これらの顧客はリース期限の終了を待たずして新たに発売された製品へ買い替えを行うというのだ。この顧客層には新製品が発売されたタイミングで買い替えを提案した場合,買い替えの成約率が極めて高いであろう。このようなことから,新製品の発売という変数が予測モデルに組み込まれ,新製品が発売されると同時に,この層を担当する営業担当者に,買い替え予測通知がメールで届くようにしたという。このように,@Remoteのデータを活かす際に,営業担当者の知識が共有化された。これまで勘と経験に基づいていた主観的な知識が,客観的なデータを活用するにあたり,有効活用されるようになったと考えられる。

さらに,営業担当者の意見の反映は,提案書と確認資料の面でも見ることができる。上述の通り,マーケティングアナリティクスチームが提案書と確認資料の作成を始めた際から,仕様や掲載すべき情報について営業担当者の意見が数多く取り入れられた。これには2つの理由があると考えられる。1点目は,提案書や確認資料が営業担当者にとって使いやすいツールにするためである。提案書と確認資料は顧客別にカスタマイズされており,顧客に最適な利用方法を提案することが可能なツールとなっている。実際に顧客企業を前にして提案を行う営業担当者が,このツールを最大限活用できる為に彼らの意見を多く採用したと考えられる。2点目は,顧客企業に伝えるべきデータを把握しているのが営業担当者であるからである。@Remoteから得られるデータの種類は非常に多い。その中から,顧客企業に対して伝えるべきデータについて最もよく理解しているのは,営業担当者に他ならない。営業担当者は,顧客とデータをつなぐ架け橋としての役割を持っているため,営業担当者の意見が数多く採用されたと考えられる。

VIII. 結び

本ケースでは,リコーの複合機利用データ収集ツールである@Remoteを活用した,既存顧客維持活動に着目し,データを活用した効率的な顧客維持活動を検討した。IoTを用いたデータ活用を行うことで,効果的なタイミングで既存顧客のもとを訪問できるようになった。また,データを活用して既存顧客に最適な提案を行うことによって,企業と顧客との間により深い関係を築くことができるようになった。

データを活用したマーケティング事例は数多くあり,それ自体が珍しいわけではない。しかし,リコーの場合は,@Remoteから得られるデータの利用において,顧客と接点の多い営業担当者の意見を多く採用している。この点が,本ケースの特筆すべき点であると考えられる。そして,彼らの意見を採用することで2つの利点が発生した。1つは,営業担当者の知識が共有化された点である。属人化されていた知識が全社的に共有されたことは,大きなメリットといえるだろう。2つ目は,営業担当者の意見が顧客とデータの架け橋となっている点である。データから顧客がとる行動のすべてを想像することは難しい。また,データが豊富になるにつれて必要以上のデータが取得され,マーケティング活動にとって重要なデータが何であるかが判然としなくなることもある。これらの問題点に対して,データと顧客とをつなぐ営業担当者の意見をデータ活用に採用したという点は大きい。営業担当者は,顧客の行動や意見に耳を傾けながら最適な提案を行う。つまり,営業担当者は顧客の行動を知ったうえで,顧客が求める情報をデータ部門に伝えられる存在であるといえよう。つまり,営業担当者がデータと顧客をつなぐ架け橋の役割となったことで,有効かつ最適なデータ活用ができるようになったと考えられる。

今後,IoTデータを活用したマーケティング事例は,現在以上に増えることは想像に難くない。しかし,データを活用する際に顧客とデータを結ぶ存在となる営業担当者が介在することで,顧客にとってだけではなく,企業にとってもより有益なデータ活用ができるようになることが本事例からうかがえる。今後のIoTデータ活用における1つの方向性を考えるうえで,@Remoteによって蓄積されたデータのマーケティング活用という本ケースは多くの示唆を与えてくれるであろう。

謝辞

本ケースの執筆にあたっては,株式会社リコー販売本部マーケティングアナリティクステーマ小野裕明様,福住敦様にインタビューにご協力をいただきました。ここに記して厚く感謝申し上げます。

1)  Internet of Thingsの略。2012年のITU報告書では,「既存のもしくは革新的な相互運用可能な情報と通信技術によって物理的・仮想的なモノを相互に接続して高度なサービスの提供を可能にするための,情報化社会におけるグローバルな基盤である」と定義している。(訳はArai, 2018

2)  原稿と感光紙を密着させて赤外線を当てることによって行われる印刷手法。原稿の文字部分が感光紙のジアゾ化合物と化学反応することで印字される。

3)  Research and Statistics Department Minister’s Secretariat Ministry of International Trade and Industry(1983)によると,1982年の静電式複写機出荷台数は1,374,670台である。

4)  Ricoh(2018)より。

6)  リコーのデータ取得技術の歴史はさらに古く,1994年よりファックス回線を用いたデータ取得が行われており(Noda, 2009),複合機での印刷枚数(カウンター料金)データを取得していた。

河股 久司(かわまた ひさし)

早稲田大学商学部卒業,2018年早稲田大学大学院商学研究科修了。現在,早稲田大学大学院商学研究科博士後期課程に在籍。

守口 剛(もりぐち たけし)

早稲田大学政治経済学部卒業,東京工業大学理工学研究科経営工学専攻博士課程修了,博士(工学)。 立教大学を経て,2005年より現職。

References
 
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