マーケティングジャーナル
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特集論文 / 招待査読論文
有機農業,カリフォルニアキュイジーヌとスローフード
畢 滔滔
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2020 年 39 巻 4 号 p. 20-29

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Abstract

本論文では,米国のカリフォルニアキュイジーヌに関する事例研究を通じて,料理文化遺産が存在しない地域において,スローツーリストを誘引するためのスローフードをつくりだす方法を検討する。本論文の結論は2点にまとめられる。第一に,カリフォルニアキュイジーヌがスローフードとして高い集客力を誇るようになった要因は,料理自体が持つ優れた特性のみならず,料理が生まれるまでのストーリーにある。第二に,そのストーリーは,スローツーリストがもつ「不純物,虚像,作り話,大量生産のもの」に溢れた生活空間から離れたいという要求や,米国の文化を知りたいというニーズ,さらに倫理的消費を重視する価値観に合致することで,スローツーリストの経験価値の向上に寄与している。ストーリーづくりの過程においては,地元の文化に関する深い知識を持った上で,倫理的消費を個人の快楽と同様に重視するスローツーリストの特徴を十分に考慮する必要がある。本論文では,こうしたストーリーづくりから生まれる観光マーケティングの可能性が示唆される。

Translated Abstract

Drawing from a case study on Californian cuisine, this paper examined how regions without any well-known cultural heritage can develop slow foods that cater to practitioners of slow travel. The case study’s findings revealed that both the high quality of the cuisine and the story associated with its development have been responsible for making Californian cuisine an iconic American slow food. The results suggest that the story associated with Californian cuisine enhances the experiences of slow tourists by satisfying their desires to distance themselves from the modern world full of “impurity, the virtual, the spun and the mass-produced,” to understand American culture, and to practice ethical consumption. For marketers of Japanese tourism, the findings imply that creating a well-framed, effective story of slow food requires profound, accurate knowledge of local food and local culture, as well as attention to the fact that slow tourists, unlike entirely self-interested consumers, value ethical consumption.

I. 問題の提起

2019年9月,178年の歴史を誇り,パッケージツアーをヨーロッパに普及させた企業として名高いトーマス・クック社(Thomas Cook)が倒産したことは,記憶に新しいところだろう。ニューヨークタイムズ紙は,同社の倒産を招いた要因の一つとして,観光客のニーズの変化を指摘している。すなわち,近年観光客はパッケージツアーから離れ,自分の好みにあった旅を求めるようになっているというのである(Sims, 2019)。トーマス・クック社の倒産に象徴されるように,先進国では,第二次世界大戦後一貫して観光客達からの高い人気を誇ってきたパッケージツアーに対する需要が低下している。一方,さまざまなニッチマーケットが成長を遂げつつある。スローツーリズム(slow travel)はその一例である。2009年,ロンドンに本拠を置く著名な市場調査会社ミンテルは,「スローツーリズムは一時的な現象ではなく,新しい市場セグメントとなっている」との調査結果を発表した(Lumsdon & McGrath, 2011)。

スローツーリズムについて定まった定義は存在しないが,多くの研究者が次の3点でパッケージツアーに代表される現在主流の観光形態とは異なると指摘している(例えば,Dickinson, Lumsdon, & Robbins, 2011; Lumsdon & McGrath, 2011)。第一に,移動時間を惜しみ,できるかぎり速く移動したり,深夜便を使ったりするような旅行とは異なり,スローツーリズムには「移動の速度を落とす」という特徴がある。第二に,短期間で多くの場所を回ろうとするような旅行とは異なり,スローツーリズムには「一か所に長く滞在する」という特徴がある。第三に,観光名所だけを効率よく回るような旅行とは異なり,スローツーリズムには「目的地に行くまでの道中,あるいは目的地において豊かな旅行体験を求める」という特徴がある。

スローツーリズムを提供する側も,それを実践するスローツーリストたちも,スローツーリズムの重要な要素の一つとしてとらえているのが,スローフード(slow food)である(Corvo & Matacena, 2018; Dickinson et al., 2011; Lumsdon & McGrath, 2011)。スローフードは,1980年代イタリアで始まったスローフードムーブメントで提起されたフードに関する考え方である。スローフードムーブメントは,グローバル化・均質化されたフード,いわゆるファストフード(fast food)に対抗する運動である。スローフードムーブメントでは,次の3つの特徴を有するフードをスローフードと定義している(Petrini, 2007)。①良いフード(good),すなわち健康的で,かつ美味しいフードでなければならない。②汚染されていないフード(clean),すなわち自然環境を考慮し,持続可能な方法で生産されたフードでなければならない。第二次世界大戦後,先進国で主流となっている食品生産の方法,例えば,地元の固有種の代わりにハイブリッドシードを用い,農薬や化学添加物など化学薬品を大量に使用して生産されるようなフードとは異なるフードを提唱している。③公平・公正な社会の実現を目指す方法で生産されたフード(fair)でなければならない。低コストと価格の安さばかりを追求し,農業労働者や生産者からの搾取を前提として生産されるフードとは異なるフードを提唱している。伝統的なローカルフードはスローフードの代表例である。

スローフード運動がイタリアで始まったことから,スローフードを重視するスローツーリズムは特にヨーロッパ諸国で盛んであると考えられがちである。ところが,興味深いことに,2017年国連世界観光機関(UNWTO)が発表した「ガストロノミーツーリズム報告書No. 2(Second Global Report on Gastronomy Tourism)」によると,カリフォルニア州サンフランシスコ市をはじめとする米国は,今日,ガストロノミーツーリズムを実践する観光客からの人気が高い旅行先となっている(UNWTO, 2017)。米国にあるさまざまな特徴的な料理の中でも,スローフードの代表格は,カリフォルニアキュイジーヌであるといえよう。カリフォルニアキュイジーヌは,カリフォルニア地元産の有機農産物を使い,フランス料理のテクニックを用いてシェフが即興的につくる料理である。味の純粋さ,プレゼンテーションのシンプルさ,季節性という特徴を備えている(McNamee, 2008)。実際,カリフォルニアキュイジーヌを提供するレストランとして世界的に有名なシェ・パニース(Chez Panisse)の創業者アリス・ウォーターズ(Alice Waters)は,国際NPO組織「スローフードインターナショナル(Slow Food International)」の副会長を務めた(2018年当時)1)。また,英語圏におけるベストセラーの旅行ガイドブック『ロンリープラネット(Lonely Planet)』のウエブサイトで米国の食が特集された際,1970年代の有機農業の発展について言及した「食の革命」に続き,2つ目のトピックとして「スロー・ローカル・有機食品」が取り上げられた。その中で,シェ・パニースは,米国におけるスローフードムーブメントの草分け的存在として紹介されている2)。2019年現在,カリフォルニア州には,ミシュランの星を獲得したカリフォルニアキュイジーヌのレストランが13軒も存在する3)

米国における料理の歴史は浅く,ローカル料理といわれる物のほとんどは移民によってそれぞれの出身国から持ち込まれたものである。そうした米国において,世界的に著名なスローフードが創り出されたのはなぜなのか。本論文ではこの問いについて,カリフォルニアキュイジーヌに関する事例研究を通じて検討する。

世界中の多くの有力観光スポットにはそれぞれ特徴的な料理が存在するが,中でも本研究はカリフォルニアキュイジーヌに着目する。これには次のような意義がある。スローツーリストを誘引するための観光資源としてスローフードに着目した先行研究の多くは,料理文化遺産が豊富なヨーロッパ諸国の事例のみを取り上げている。あえて料理文化遺産が少ない米国の事例を取り上げることは,先行研究の空白を埋めるという点で理論的意義をもつ。一方,料理文化遺産がない地域においても「おいしさ,クリーンネス,倫理的消費」を特徴とするスローフードをつくりだすことが可能であることを示し,その方法についてヒントを提示することができれば,実践的にも有意義なものとなろう。

本論文は次のような構成で議論を進める。次の第2節では,スローフードがスローツーリストの経験価値に及ぼす影響について先行研究をレビューする。続く第3節でと第4節それぞれでは,カリフォルニアキュイジーヌについて,食材を提供する米国の有機農業と,その料理法の発展に関するストーリーを説明し,それらのストーリーと,1960年代に米国社会を大きく変化させたヒッピームーブメントとの関係を明らかにする。最後にカリフォルニアキュイジーヌがスローフードとしてスローツーリストをひきつける理由を分析した上で,本稿のインプリケーションおよび残された課題について述べる。

II. 先行研究に関するレビュー

スローフードがスローツーリストの経験価値に及ぼす影響に関する先行研究は,主に2つのテーマについて議論を行ってきた。(1)スローツーリストがスローフードを求める理由,および(2)スローフードがスローツーリストをひきつけるために備えなければならない要素,の2つである。

1. スローツーリストがスローフードを求める理由

Corvo and Matacena(2018)が指摘したように,パッケージツアー参加者のような観光を目的とする観光客と比べて,スローフードがスローツーリストの経験価値に及ぼす影響は大きい。Gentile, Spiller, and Noci(2007)は,経験価値を次のように定義している。「経験価値は,顧客と製品,企業全体または一部との一連の相互作用を通じて生じる。経験価値は個人的なものであり,また,理性的,感情的,感覚的,身体的,精神的など,さまざまなレベルにおける顧客の関与を意味する。経験価値に対する評価は,多様なタッチポイント(企業・ブランドと顧客の接点)における企業との相互作用や企業の提供物から顧客が得る刺激と,顧客の期待との比較で行われる」(Gentile et al., 2007, p. 397)。パッケージツアーに参加するような観光客もまた,旅行中にローカルの特産品を食べたり買ったりするが,そうしたフードは彼らが旅行に求める価値の中心的なものではない。したがって,フードが彼らの経験価値に及ぼす影響は小さい(Corvo & Matacena, 2018)。一方,スローツーリストにとっては,本物のローカルフードに代表されるスローフードを求めること自体が旅行の目的の一つとなっている。そうした意味で,スローフードが彼らの経験価値に及ぼす影響は大きい(Corvo & Matacena, 2018)。

スローツーリストがスローフードを求める理由として,先行研究は以下の2つを挙げている。一つは,スローツーリズムを体験する観光客の重要な動機が,未知の文化を体験し,理解しようとすることにあるからである。スローフードを体験することは,ある文化を体験し,理解する最も重要な手段の一つとなる(Corvo & Matacena, 2018; Scarpellini, 2012; Sims, 2009)。ある地域のフードとその地域の文化の関係について,Scarpellini(2012)は次のように指摘している。ある地域のフードは,「その地域の農業・産業・商業の状況,伝統的慣習,宗教的信念,社会的障壁,性別と年齢による分業,経済的格差,料理文化,味と美学,地理的特徴,アイデンティティと帰属意識,公共政策などを内含している。そのため,食事を注意深く観察することで,その地域の人々の文化のほとんどを読み解くことができる」(Corvo & Matacena, 2018, p. 100に翻訳・引用)。こうした考え方に基づき,Corvo and Matacena(2018)は,スローツーリストは,良い食べ物と良いワインを探すことによって,純粋に快楽主義的な願望を満たそうとしているのではなく,むしろ,フードを通じて地域の真の特徴を発見しようとしていると指摘している。

スローツーリストがスローフードを求める2つ目の理由は,彼らが旅行において本物の経験(authenticity)を求めているからである(Sims, 2009; Yeoman, Brass, & McMahon-Beattie, 2007)。Yeoman et al.(2007)が指摘しているように,スローツーリストは,「不純物,虚像,作り話,大量生産のもの」に満ちた日常の生活空間から離れることを望む。スローツーリズムを実践するべく,旅行においては偽物または不純で汚染されている経験と製品を拒み,オリジナルで本物の経験と製品を求めるのである(Yeoman et al., 2007, p. 1,128)。フードに関していえば,Honoré(2005)が描いた以下のようなファストフードとは正反対のスローフードこそが,スローツーリストに本物のフードとして認識されている(Honoré, 2005, p. 55)。

化学肥料と農薬,集中給餌法,消化促進剤,成長ホルモン,厳密な繁殖管理,遺伝子組み換え技術の使用など,我々人類が知り得る限りのあらゆる科学トリックが,コスト削減と収量の増加,家畜と作物の成長促進のために使われている。2世紀前,生まれたばかりの豚が体重130ポンドに達するまでに5年の歳月を要したが,今日はわずか6ヶ月で220ポンドに達し,乳歯を失う前に屠殺される。北米の鮭は,遺伝子組み換えによって,普通の鮭よりも成長スピードが4倍から6倍速い。小規模農家は大規模な「工場農場」に農場を売却せざるを得ず,工場農場では,速く,安く,標準化された食物を大量生産している。

本物の経験に乏しい現代生活から逃れるために旅をするスローツーリストたちにとって,Honoré(2005)が描いたファストフードとは異なる地元のスローフードを食べることこそが,本物の経験となる。それだけではなく,自らの旅行によって旅先の自然環境や伝統文化が破壊されることなく,むしろ,地元の人々の生活向上や,伝統文化の継承,コミュニティ振興に役立っていると感じることで,スローツーリストたちは自分自身の存在を善なるものとして認識する。こうした感覚もまた彼らの経験価値の向上に寄与する(Everett & Aitchison, 2008)。

2. 集客力のあるスローフードが備える要素

(1) 料理の特性とストーリー

Corvo and Matacena(2018)および,Richards(2012)Sims(2009)は,スローフードは2つの側面で,スローツーリストが求めるオーセンティシティに影響を及ぼし,結果として観光客の経験価値の向上に寄与すると指摘している。言い換えれば,スローツーリストを誘引することができるスローフードは,これらの2つの側面を備えている必要があるといえる。一つは,味,色,テクスチャ,料理の提供方法,食べ方,といった料理自体が持つ特性である。地元産の高品質な食材と丁寧な料理作りは,地元感と本物性を提供する(Richards, 2012)。もう一つは,食材の生産と料理の作り方に関する「ストーリー」である。こうした「ストーリー」は,訪れる地域の本物の伝統・文化を知り,体験したいというスローツーリストのニーズを満たすことで,観光客の経験価値に影響を及ぼす。

Corvo and Matacena(2018)は,イタリアのレッジョディカラブリア地域と,当該地域が面するメッシーナ海峡の向かい側のシチリア島の一部の地域における典型的なローカルフードとして知られる「ペッシェストッコ(pescestocco: stockfish)」に関する事例研究を通じて,スローフードの2つの側面それぞれがどのようにスローツーリストの経験価値に影響を及ぼすかを説明している。ペッシェストッコがスローツーリストたちの間で高い人気を誇っている理由は2つあるという。一つは製品自体がもつ特性である。具体的に言うと,ペッシェストッコには,トマト,オリーブ,ケッパー,唐辛子,カリフラワーなど典型的な地中海料理の原料が使われており,また,レッジョディカラブリア地域・シチリア地域のローカルなレシピで作られ,味の面でもとてもおいしい。しかし,こうした製品自体が持つ特性に加えて,レッジョディカラブリア地域に代々伝わるペッシェストッコにまつわるストーリーもまた,スローツーリストの興味を引く材料となっているという。ペッシェストッコは伝統的に「貧しい人達に人気の食べ物」であり,レッジョディカラブリア地域に住む人々のアイデンティティを表す食べ物である。1908年に発生したメッシーナ地震では,世界中の多くの国の海軍や商船が同地域に人道的支援を提供する中,一隻のノルウェーの商船は,大量の干しダラ(ペッシェストッコの原料)を救援物質として同地に降ろしたというエピソードも残っている。ペッシェストッコに関する事例研究に基づき,Corvo and Matacena(2018)はスローフードにまつわるストーリーとスローツーリズムの関係について次のように語っている(Corvo & Matacena, 2018, p. 103)。

文化に関連するフードの歴史的ストーリーをたどることで,スローツーリストたちは地域の歴史,宗教,貿易関係,過去あった傷と挫折,自然災害とそれに対する対応,これらの要素の結果として生まれた生活習慣と風習を理解することができる。スローツーリストは,歴史上の多様な出来事を知ることにより,その地域の精神や,そこに住むに人々の行動と集合的な特性に対する理解を深めるのである。

(2) 優れたストーリーをつくりだす条件

スローツーリストたちの関心をひき,スローフードが体現するシンボリックな価値を彼らに受け入れてもらえるようなストーリーをいかにしてつくるべきか。こうした問題について,先行研究は次の2点を指摘している。第一に,Horng and Tsai(2010)は,優れたストーリーをつくりだすためには,マーケッター自身が,地元料理と食材,文化に関して,幅の広い,豊富な知識を持つ必要があると主張している。表面的かつ断片的な知識しか持たないマーケッターは,他のフードや地域との差別化を図り,本物の経験を求める観光客の関心を喚起するようなストーリーをつくりだすことはできないという(Horng & Tsai, 2010)。

第二に,Richards(2012)は,ストーリーづくりをする際には,ターゲットとなる観光客がもつ「解釈の枠組み(フレーム)」を意識することが重要であると指摘している。Sims(2009)によれば,スローフードに高い関心を持つ観光客の多くは,現代の大量消費社会が提唱している消費様式に不満をもっており,個人の快楽だけではなく,倫理的消費を重視する傾向にあるという。

文献レビューの結果からわかるように,優れた製品特性とストーリーを備えたスローフードは,スローツーリストを誘引するための重要な観光資源となりうる。この点を指摘したことは,先行研究の重要な貢献であると考えられる。一方,こうした論点を説明する際に先行研究が取り上げた事例は,料理文化遺産が豊富なヨーロッパ諸国の事例に限られている。料理文化遺産がない地域においても,世界中にその名を知られるようなスローフードを生み出すことはできるのか。本研究では,これまでの先行研究が必ずしも掘り下げてこなかったこうした問題について,米国のカリフォルニアキュイジーヌに関する事例研究を通じて検討する。

事例研究におけるデータ収集の方法は次の通りである。一次データとして,2017年度,米国西海岸に立地し,かつ1990年代以前に創業した,いわゆる歴史の長い有機農場の創業者(6名)に加えて,カリフォルニアキュイジーヌのレストランのオーナー(2名),有機農産物のファーマーズマーケットのディレクター(4名),有機農業に関するドキュメンタリー映画の制作者(2名)に対してインタビュー調査を実施した。二次データとしては次の5つを収集した。すなわち①カリフォルニア大学サンタクルス校に保管されている同州の有機農業の発展に関するオーラル・ヒストリー(口述歴史),②オレゴン州立大学に保管されている米国西海岸の有機農業の発展に関するアーカイブ資料とオーラル・ヒストリー,③カリフォルニアキュイジーヌの発展において重要な役割を果たしたレストランの創業者・シェフの伝記とドキュメンタリー映画,④これらの創業者・シェフが出版した書籍,⑤これらのレストラン・創業者・シェフに関する新聞・雑誌記事の5つである。

事例研究では,膨大な二次データが提供する史実を分析し,分析の結果に基づいてカリフォルニアキュイジーヌに原料を提供する米国の有機農業および料理法の発展に関するストーリーを構築した。その上で,インタビュー・データを通じてストーリーの妥当性を検証した。事例研究では,目的に応じて二次データを重要視し,活用した。事例研究の主な目的は,カリフォルニアキュイジーヌの誕生および発展,世に知られるようになるまでの歴史を明らかにすることにある。カリフォルニアキュイジーヌの誕生と発展にかかわり,歴史に詳しい関係者はすでに高齢化しており,インタビュー調査によるデータ収集は容易ではない。一方,アーカイブやオーラル・ヒストリーをはじめとする豊富な文書・音声・画像史料は米国の研究機関に保管されており,関係者の伝記や彼らの著作も刊行されている。こうした質の高い二次データを幅広く収集し,分析することによって,カリフォルニアキュイジーヌの発展史を如実に示すことができると考えられる。

III. ヒッピー農家と米国の有機農業4)

1. カリフォルニアキュイジーヌ,ヒッピー

カリフォルニアキュイジーヌは,カリフォルニア地元産の有機農産物を使い,フランス料理のテクニックを用いてシェフが即興的につくるものであり,味の純粋さ,プレゼンテーションのシンプルさ,季節性という特徴を備えた料理である(McNamee, 2008)。カリフォルニアキュイジーヌに対して食材を提供する有機農業も,カリフォルニアキュイジーヌの調理法そのものも,古い歴史を持つわけではない。両者は,1960年代米国で高まったヒッピームーブメントから影響を受けて発展し始めた。

ヒッピーとは,1960年代の若者文化を実践した人々のことを指す。彼らは,1950年代に米国で共有されていた中産階級の価値観とライフスタイル,米国の消費社会を拒絶した。ヒッピー達は,安定的かつ給料が高い職業に就き,猛烈な出世競争に参加して財産を増やし,近所の人に負けまいと見栄を張り,人を効率と有用性のみで評価する中産階級の人生目標を拒んだ(Miles, 2013; Strait, 2011)。さらにヒッピー達は,米国消費社会における中産階級の生活を嫌った。例えば,郊外に大量に建てられた均質的な住宅に住み,他の人と同じような車を持ち,人々の思考能力や知性を阻害するようなホームコメディーを見る生活を極度に退屈なものと感じていたのである(Miles, 2013)。ヒッピー達は,自由と希望,個人の幸福,さらに変革と革命を求めた(Miles, 2013)。

この節では,カリフォルニアキュイジーヌに対して食材を提供する米国の有機農業の発展のストーリーを説明し,そのストーリーとヒッピームーブメントとの関係を明らかにする。

2. ヒッピー農家と米国における有機農業の発展

第二次世界大戦後,米国における農業振興政策の最大の目標は,生産性の向上にあった。そのため,機械化,農薬や化学肥料の大量使用,品種開発を特徴とする「工業化」された農業が,政府によって強力に後押しされるようになった(Gardner, 2006, p. 72)。一方有機農業は,1960年代後半に,工業化された農業に対抗するカウンターカルチャーとして発展し始めた。

米国において有機農業の本格的発展をもたらしたのは,1960年代後半から1970年代にかけて高まりを見せた社会運動「バック・ツー・ザ・ランド・ムーブメント(Back-to-the-Land Movement)」である(Youngberg, Schaller, & Merrigan, 1993)。バック・ツー・ザ・ランド・ムーブメントとは,1960年代半ばから1970年代にかけて,毎年数千人単位の都市出身者・都市生活者が農村地帯に移住し,小規模な農場をリースまたは購入したり,コミューンを設立したりして共同生活を実践した社会運動である。1970年代終わりまでに,米国の都市部から北米の農村部に移住した人の数は100万を超えたという(Simmons, 19795)。この運動に参加した人々は,バック・ツー・ザ・ランダー(Back-to-the-Lander)と呼ばれている。バック・ツー・ザ・ランダーたちは,自らの農場またはコミューンで有機農産物を栽培し,それらの生産物を販売するチャネルを構築した。

Jacob(1997)が指摘したように,バック・ツー・ザ・ランド・ムーブメントの根底には,米国の都市生活に隅々まで浸透した大量消費・物資主義に抵抗したいという精神があった。また,こうした精神は,ヒッピームーブメントなど,1960年代米国で高まりを見せた様々な社会運動の根底にあった精神と共通していた(Jacob, 1997)。バック・ツー・ザ・ランド・ムーブメントと結びついたイデオロギーは,(1)人生をコントロールする自由を企業から取り戻すこと,および(2)シンプルな生活をすることで地球環境に対する破壊を止めることであった(Shuttleworth, 1975)。

バック・ツー・ザ・ランダーたちには2つの特徴があった。すなわち,(1)彼らの多くは高学歴者であり,(2)農業経験が殆どないままに農村に移り住んだ,という特徴である(Jacob, 1997)。高学歴者でありながら,当時の米国のメインストーリーム・ライフを拒絶し,農村に移り住んだという意味で,バック・ツー・ザ・ランダーたちは「ヒッピー農家」であるともいえよう。

高学歴者であったヒッピー農家たちは,数多くの経験談を出版した。その中にはベストセラーとなったものも少なくなかった。例えば,1970年に刊行されたレイモンド・ムンゴ(Raymond Mungo)のTotal loss farm: A year in the life(トータル・ロス・ファーム:農村での一年)は,ヒッピー農家となったムンゴたち仲間が農場コミューン「トータル・ロス・ファーム」で過ごした1年目の生活を記したものである。同書は,これまで数十年間にわたり増刷され続けており,今なお絶版になっていない(Mungo, 2014)。こうしたベストセラーの存在により,米国のヒッピー農家たちが有機農業の発展において重要な役割を果たしたというストーリーが,英語圏の多くの読者の間で知られるようになった。

IV. ヒッピーシェフとカリフォルニアキュイジーヌ

カウンターカルチャーの運動として発展し始めた経緯もあり,米国政府が「慣行食品よりも有機食品の方が安全で,健康にも良い」と認めることはなかった。それにもかかわらず,1970年代の米国では,地元産の有機農産物を使い,シンプルな調理法で,シェフが即興的に料理をつくりあげる,という新しいタイプの料理法が誕生した。その代表格がカリフォルニアキュイジーヌである。米国における有機農業の発展に重要な役割を果たしたのがヒッピー農家であるならば,カリフォルニアキュイジーヌの誕生に多大な貢献をしたのは,料理に関する専門教育や正式な訓練を受けたことのない,いわゆるヒッピーシェフたちであった。

1. ヒッピーシェフ

1970年代まで,米国におけるシェフは,非熟練労働者としてみなされることが常であった(Friedman, 2018)。しかし,1970年代になると,高学歴の若者達の中に,自らメインストーリーム・ライフから逸脱し,メインストーリームの人々に軽蔑されていたはずのシェフという職業を自発的に選ぶ人々が数多く現れた(Friedman, 2018; McNamee, 2008)。職業に関するメインストーリームの考え方に反抗したという意味で,彼らをヒッピーシェフと呼ぶことができるだろう。1970年代ヒッピーシェフが群生した背景には,ヒッピームーブメントにより,「古い文化が吹き飛ばされ,ひっくり返され,みんながヒッピーに変わろうとしていた」当時の米国の状況があった(Friedman, 2018, p. 16)。

カリフォルニアキュイジーヌを生み出したシェフたちがいかにヒッピー的であったかを明らかにするために,シェ・パニースを例にあげよう6)。創業者アリス・ウォーターズをはじめ,初代チーフシェフ,初代パテシエ,初代総支配人はいずれも創業当時,カリフォルニア大学バークレー校の卒業生,または同校大学院に在学中の学生であった。また,二代目チーフシェフに就任したジェレミヤ・タワー(Jeremiah Tower)は,ハーバード大学デザイン大学院で建築を学び,1971年に修士号を取得した人物である。シェ・パニースの例は決して特殊ではない。1970年代,高学歴でありながら,メインストーリーム・ライフから逸脱し,シェフという道を歩み始める若者が全米各地に現れた(Friedman, 2018)。

2. カリフォルニアキュイジーヌ

1970年代,ヒッピーシェフたちは,プラスチック的な食料品に支配された米国の食品市場に疑問を呈し,カリフォルニアキュイジーヌを考案した。そのきっかけとなったのは,彼ら自身のヨーロッパ旅行での経験であった。1960年代から1970年代にかけて,米国の若者の多くが訪れたフランスやイタリアなどヨーロッパの料理は,大きく2つのカテゴリーに分類されていた。ひとつは,大都市の高級レストランの料理に代表されるものであり,もうひとつは,家庭料理やビストロの料理に代表されるものであった(Belasco, 2007; Friedman, 2018; McNamee, 2008)。両者の違いは主に2つあった。ひとつは食材市場と料理の関係であり,もうひとつは,シェフの即興性の有無である。高級レストランでは,日によって料理が変わることはない。一定の期間は同じメニューを提供し,変化と言えば季節ごとに旬の素材を取り入れること位に過ぎなかった(McNamee, 2008)。一方,家庭やビストロにおいては,主婦とビストロのシェフが「毎日市場を訪れ,食材を触ったり,匂いを嗅いだり,農家や漁師と直接話をして」,その日手に入れられる優れた食材に応じてメニューを考えていた(McNamee, 2008, p. 31)。家庭の主婦やビストロのシェフによる料理に対するアプローチから多大な影響を受け,地元産の有機農産物を使い,シェフが即興的に料理をつくりあげるカリフォルニアキュイジーヌの基本アプローチが誕生した(Bi, 2019)。味の純粋さ,プレゼンテーションのシンプルさ,季節性という特徴を備えるカリフォルニアキュイジーヌを,高級フレンチレストランのような堅苦しい環境ではなく,明るく,ゆったりとしたお店で食べる経験は,ヒッピーたちのみならずヒッピー以外の多くの米国人と観光客をも虜にした。

シェ・パニースのように高級店へと成長したレストランだけでなく,1970年代全米各地でオープンしたカリフォルニアキュイジーヌを提供する小さなレストランやカフェも人気を呼んだ(Bi, 2019)。例えば,シェフから料理評論家・ジャーナリストに転身したジョナサン・カウフマン(Jonathan Kauffman)は,1977年シアトル市でヒッピーたちがオープンした同市初のベジタリアン(菜食主義者)カリフォルニアキュイジーヌレストラン「サンライトカフェ(Sunlight Cafe)」の今日の様子について次のように描いている。サンライトカフェで売られているホールウィートクッキーやマフィン,ホールウィートブレッドにアボカドとアルファルファもやしを挟んだサンドイッチを,現在多くの米国人と観光客が喜んで食べており,「テンペハンバーグと豆腐ハンバーグが両方ともあまりにもおいしそうだから,どちらを注文しようか悩む女性達」の姿がよく見られるという(Kauffman, 2018, p. 2)。

ヒッピー農家によるベストセラーの刊行が,米国の有機農業に関するストーリーを英語圏の読者に伝え続けてきたのと同じように,カリフォルニアキュイジーヌについても,その料理法自体またはヒッピーシェフに関する数多くの書籍が出版され,ドキュメンタリー映画がリリースされてきた。中には,ベストセラーとなったり,賞を受賞した作品が少なくない。例えば,アリス・ウォーターズによる自伝『正しい感覚に戻る:一人のカウンターカルチャーシェフの誕生(Coming to my senses: The making of a counterculture cook)』は,ニューヨークタイムズのベストセラーリストに名を連ねている(Waters, Mueller, & Carrau, 2017)。また,シェ・パニースのチーフシェフであったジェレミア・タワーに関するドキュメントリー映画「ジェレミア・タワー:最後の偉大なシェフ(Jeremiah Tower: The last magnificent)」は,米国の優れたシェフとレストラン,関連する著作と文化放送番組などを表彰する「ジェームズ・ビアード財団賞(James Beard Award)」にノミネートされた。これらの著作やドキュメントリー映画により,カリフォルニアキュイジーヌの歴史や,それを生み出したヒッピーシェフたちの足跡が,英語圏の読者と視聴者に広く知られるようになった。

V. 要約とインプリケーション

本論文では,料理文化遺産をもたない地域においても,広く世に知られ,スローツーリストをひきつけるようなスローフードをつくりだすことはできるのかという問題意識に基づいて,米国のカリフォルニアキュイジーヌに関する事例研究を行ってきた。本研究の結論は以下の3点にまとめることができる。

第一に,料理文化遺産がない地域においても,スローツーリストをひきつける観光資源となるようなスローフードをつくりだすことは可能である。1971年,人口12万人未満の小さな大学町バークレー市にヒッピーシェフがオープンさせたシェ・パニースは,今日世界的に有名なスローフードのレストランとして多くの観光客をひきつけている。

第二に,カリフォルニアキュイジーヌが世界的に有名なスローフードへと成長し,スローツーリストたちをひきつけている理由は2点あると考えられる。一つは,ローカル産の素材と有機農産物・畜産物のクリーンさ,素材の良さを引き立てる調理方法,さらに,明るくてゆったりとしたお店で食事をするという食環境によって,スローツーリストに対して料理自体が持つ優れた特徴を提供している点である。もう一つは,カリフォルニアキュイジーヌの食材と料理法が生まれるまでのストーリー,すなわちヒッピームーブメントと深く関連したストーリーが,数多くのベストセラーやドキュメンタリー映画などを通じて英語圏の人々に広く認知されている点である。こうしたストーリーを,米国のオーセンティシティを体現するものとして人々が認識することで,観光客の経験価値が高まっていると考えられるのである。

第三に,米国の大量消費社会・物質主義に反抗したヒッピームーブメントと関連したカリフォルニアキュイジーヌのストーリーは,スローツーリストたちがもつ「不純物,虚像,作り話,大量生産のもの」に満ち溢れた生活空間から離れたいというニーズ(Yeoman et al., 2007, p. 1,128)および倫理的消費を重視する価値観に合致した。このことは,スローツーリストがカリフォルニアキュイジーヌのストーリーに共鳴し,カリフォルニアキュイジーヌのシンボリックな価値を認めることに寄与したと考えられる。

今日世界の多くの観光地は,地元のインフラに大きな負担をかけ,伝統文化の継承にも悪影響を及ぼしかねない「安い観光市場セグメント」から脱出し,スローツーリストに代表されるような,倫理的消費を重視し,価格が高くても質の良いローカルフードを消費することを望む高級市場の顧客をひきつける観光地へと生まれ変わろうとしている(Everett & Aitchison, 2008; Fields, 2011)。特に,国土が狭く,公共交通などのインフラ面からも現状以上の数の観光客を受け入れることが困難な日本の場合は,単にインバウンド観光客数を増加させる戦略から,高級市場の顧客を多くひきつけるような戦略へと転換を迫られているといえよう。スローフードの振興によってスローツーリストを誘引するための戦略策定に関して,本研究は3つのインプリケーションを持つ。第一に,特別な文化遺産がない地域においても,地元で持続可能な生産方法で生産される食材を丁寧に調理し,それにまつわる優れたストーリーをつくりあげることによって,スローフードに興味をもつ観光客をひきつけることができる。第二に,ストーリーづくりのプロセスにおいては,倫理的消費を個人の快楽と同様に重視するスローツーリストの特徴を考慮に入れる必要がある。第三に,地元のフードと文化に関して表面的・断片的知識しか持たないようなマーケッターには優れたストーリーをつくりだすことができない。そういう意味では,幅広い知識・興味・教養をもち,学習の意欲が高い人材を育成することが,日本の観光関連産業の重要な課題であるといえよう。

本研究には2つの課題が残されている。第一に,スローツーリズムという新しい趨勢を研究の中心概念として据えながら,スローツーリズムの市場規模を示せなかった点である。スローツーリズム自体が市場セグメントとして認識されて間もないがゆえに,それを実践するスローツーリストに関する公的機関や民間団体の統計・調査は非常に少ない。カリフォルニアキュイジーヌを旅行の目的の一つとするスローツーリストの規模を明示的に示すためにも,今後は地元DMOなどの協力を得て,旅行者に対するアンケート調査を実施する必要があると考えられる。と同時に,カリフォルニアキュイジーヌにひきつけられる理由について明らかにするために,スローツーリストに対する詳細なインタビュー調査を実施する必要もあろう。本研究に残された2つの課題として,今後実施に移したい。

1)  NPOスローフードインターナショナルは1989年に設立された組織であり,現在世界160を超える国に支部をもつ。NPOスローフードの創立者・会長は,スローフードムーブメントの発起人であるカルロ・ペトリーニ(Carlo Petrini)である。NPOスローフードインターナショナルのウエブサイトによる(https://www.slowfood.com/)。

2)  ロンリープラネットのウエブサイトによる(https://www.lonelyplanet.com/usa/in-location/eating/a/nar/f145ddbf-4520-42bd-8b84-b3727a6c6473/361720)。

3)  ミシュランガイドのウエブサイトによる(https://guide.michelin.com/en/us/california/restaurants/californian?lat=35.6209773&lon=139.7231541)。

4)  本節の説明は,Bi(2019)の第2節と第4節を加筆したものである。

5)  1960年代終わり,ベトナム戦争の兵役から逃れるため,あるいは自分の子供を兵役から逃れさせるため,カナダの農村部へと移住した米国人もいた。

6)  シェ・パニースの創業者とシェフ,スタッフの経歴に関する説明は,McNamee(2008)Friedman(2018)による。

畢 滔滔(びい たおたお)

1970年中国北京市生まれ。博士(商学・一橋大学)。現在,立正大学経営学部教授。主要著作は『チャイナタウン,ゲイバー,レザーサブカルチャー,ビート,そして街は観光の聖地となった:「本物」が息づくサンフランシスコ近隣地区』(白桃書房,2015年,日本商業学会・学会賞(奨励賞)受賞)など。

References
 
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