マーケティングジャーナル
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マーケティングケース
岡山県矢掛町におけるアルベルゴ・ディフーゾの発展プロセス
― 地域のマーケティングとアクターの生成 ―
神田 將志日高 優一郎
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2022 年 41 巻 3 号 p. 105-114

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Abstract

本研究では,岡山県小田郡矢掛町におけるアルベルゴ・ディフーゾ(Albergo Diffuso,以下ADと表記)の発展プロセスを考察する。ADは,町の中に点在する空き家を一体化した宿として活用してエリア全体を活性化する試みである。人口減少が進む中で,地方活性化の手法として注目を集めており,日本では矢掛町が初めてADタウンに認定されている。本研究は,矢掛町の事例では,当初からADを念頭に活動を進めたわけでなく,活動がADとの邂逅を生み出したことを示す。当事者が,当座の「町ごとホテル」の名のもと,当地の伝統的な関係性を紐解きながらアクターを生成し,生成した各アクターが資源をやりくりして実践を積み重ねた結果,ADとの邂逅を生み出している。事業が「AD」と再定義されたことは,当事者たちの当地の魅力や活動対象エリアの認識に変化を生み出し,更なる可能性を呼び込んでいる。本研究は,矢掛町のAD認定に至る軌跡を辿り,その意義を考察する。

Translated Abstract

This study considers the development of Albergo Diffuso (hereinafter referred to as AD) in Yakage, Oda District, Okayama Prefecture. AD is an attempt to revitalize an entire area by utilizing vacant houses scattered throughout a town as an integrated hotel. This approach has attracted attention as a method of regional revitalization in an era of population decline. In Japan, Yakage is the first town to be certified as an AD town. This study shows that activities were not initially performed with AD in mind; on the contrary, these activities created the opportunity for AD. A practitioner initially created persons involved in this business under the name of “the whole town as a hotel” while unraveling traditional relationships in the area. Subsequently, practices accumulated by each person managing resources created the conditions for AD. The redefinition of the business as “AD” created a major change in the perceptions of attractions of the area and of the area itself, and is priming further possibilities. This study traces the process leading to AD certification in Yakage and considers some implications of this process.

矢掛町の街並み

出典:矢掛町観光交流推進機構

I. はじめに

本研究では,岡山県小田郡矢掛町1)におけるアルベルゴ・ディフーゾの発展プロセスを考察する。アルベルゴ・ディフーゾ(Albergo Diffuso,以下ADと表記)は,Albergo(宿)をDiffuso(分散した)「分散型宿」という意味のイタリア語で,町の中に点在する空き家を一体化した宿として活用してエリア全体で活性化しようとする試みである。1976年に北イタリアで発生した大地震で荒廃の危機に直面した集落の復興を図る手段として生まれたとされる2)。町の中に点在する空き家を受付・宿・レストラン・店舗等として活用するため,集落内で旅行者の動線が自然と生まれ,旅行者が地元住民とコミュニケーションをとりながらその地に暮らしているような滞在経験ができる点に特徴がある。人口減少が進む歴史地区で地域の空き家と歴史文化を活かして再生するこの試みは,地方活性化の手法として注目を集めている(Nikkei, 2019a, 2019b)。日本では,本研究が考察する矢掛町の宿泊施設「矢掛INN&SUITE」がアジア初のADとして2018年6月にAD協会から認定された。

矢掛町のADの発展プロセスを振り返ると,本事業は,当初からADを念頭に置いて活動を進めてきたわけではないことがわかる。むしろ,後述する安達氏をはじめとする主体が,当座の目標の下その都度使える資源をやりくりして行動した結果,本事業に関わる主体を生み出してADとの接点が生まれ,当地の魅力を形成する更なる活動を呼び込んでいる。また,ADは一宿泊施設で完結しないという特質から必然的に複数の主体が関わることになるため,事業の推進にあたり事業に関わる主体の生成や関係性の構築に注力してきた。では,矢掛町のADはどのようなプロセスで進められたのだろうか3)

II. アルベルゴ・ディフーゾの発展プロセス

1. 宿場町の再生へ繋がるビジネスモデルの形成

ADの事業をこれまで主導してきたのは,現在「矢掛屋INN AND SUITES」などのちにADに関わる資源を運営する株式会社シャンテ代表取締役CEOの安達精治氏である。安達氏は島根県浜田市出身で,実家は浜田藩の浜田城址内にある。大学卒業後日本不動産銀行に入行し,帝国ホテルをはじめとする全国のホテルプロジェクトに従事していた。そこで,地域の歴史や生活者ニーズを丹念に調べながら10年先を見据えた計画を提案した経験から,ホテル経営の計画は10年先までを見据えるのが最適だと会得する。また,ザ・リッツ・カールトンの大阪進出のサポートにも従事した。そこで,同社の卓越したホスピタリティのルーツが日本の旅館の女将さんにあると説明を受け,このホスピタリティは,小規模でこそ真価を発揮するはずだと感じていたという。そして,このホスピタリティを日本各地で実現するにはどうすればよいか思案していたという。

安達氏はその後1994年に独立してホテル業のオペレーションとマネジメントの専門会社を立ち上げ,ホテル再生やコンサルティングを続けていく。その中で,2009年に広島市のホテル八丁堀シャンテの再建に従事する。再建困難な案件と言われていたが,売上を調べてみると年商約10億円でブライダル事業が約5億円の赤字となっていた。安達氏によれば,ホテルは部門毎に損益分岐点が大きく異なるため,損益を部門毎に見れば多くの課題が発見できるという。同氏はホテル再生の最初の打ち手としてこのアプローチを重視してきた。

ブライダル事業から撤退して黒字化し,同時に取り組んだのが地域の歴史を学ぶ市民講座の実施だった。安達氏は,ホテルの役割を「地域の方々に文化を売ること」だと位置づけていた。ホテルの近隣の方々が歴史や文化を再認識することは,地域におけるホテル再生の第一歩になると考えていた。原爆により歴史的な資産が形として残っていない広島で,地域の歴史を学びなおして地域の方々に誇りを持ってもらうことを目的としたこの講座は,1回3,500円という価格設定にも関わらず毎回200人以上が参加する人気講座となり,頻度が月1回から2回に変更された。想定外の開催頻度に講座のテーマが尽きかけた折,参勤交代を学ぶというテーマが発案され,最も近隣で宿場町が残っているのが矢掛町だと知り,安達氏は市民講座の下見としてはじめて矢掛町を訪れる。しかし,その時は「時が止まったような町で,ここをホテルにしようとは思っていなかった」という。

ホテル八丁堀シャンテの黒字化と並行して安達氏が取り組んでいたのが,島根県との県境にある広島県山県郡北広島町の広島北ホテルの再建だった。ここでも,安達氏が最初に取り組んだのは地域に根ざした歴史を紐解くことだった。同ホテルが立地する千代田町は毛利元就が初陣を挙げた地で,千代田とは千代の田圃,天皇に献上するお米を作る圃場がある地だとされる。良質の湧水があるゆえに,美味しいお米が取れる地にホテルが立地していることを知る。温泉水は飲むこともできることから,安達氏はこのホテルで水を題材にしたストーリーをつくり再生を果たす。当地の歴史的背景からユニークな強みを引き出しデザインし直す手法は,安達氏が得意とする価値再生の手法である。

そこで,安達氏の実家のある浜田藩が参勤交代で最初に宿泊する本陣が実は広島北ホテルの真裏にあったこと,そして少し先に矢掛町があることを知る。この時初めて,自分のルーツと自分の現在のビジネス,矢掛町が繋がった。これをきっかけに,安達氏は矢掛町についてさらに知りたいという気持ちを高めていく。

安達氏が矢掛町の山野町長と初めて会ったのは,地域に先駆けて矢掛町が推進しようとしていた太陽光パネルの設置事業の営業に他の事業者と同行した時である。安達氏はそこで,ホテルのマネジメント事業を行っていることは告げずに矢掛町に強い関心があることを伝えた。山野町長からは「また来なさいよ」と言われ,最初の出会いは終わるのだが,話をする中で,山野町長が経営者視点を持った町長で民間の活力で町の発展を考えている人物であることを知る。

山野町長は,約30年前の町職員だった頃から,重要伝統的建造物群保存地区認定による町内の伝統的景観の保護や無電柱化といった施策に関する研究を重ねてきた。この2つの施策は町の長年の想いでもあり,これと併せて山野町長は古民家を活用したまちづくりを推進しようとしてきた。安達氏が,山野町長が町の古民家の再生と活用を検討していることを知るのは,2回目に山野町長を訪問した時である。山野町長から,町が所有して活用を検討していた3軒の古民家があることを紹介される。山野町長は,解体寸前まで計画が進んでいた古民家を残すため地主を説得して町有化し,地域外に売却されていた古民家も買い戻してこれも町有化していた。更に,今後の町の発展に寄与したいと遺族から寄贈された物件もあった。往時には宿場町を支えていた築400年を超えるこれらの古民家は,宿場町としての伝統を残して宿泊施設として活用することを企図した山野町長の考えから,「社会資本整備総合交付金(国土交通省)」や「過疎対策事業債(総務省)」を活用し,整備が進められることにはなっていた。しかし,これらの古民家へのストーリーの付与の方法や管理・運営方法に関する明確な具体策までは見いだされずにいた。

これを見た安達氏は,ザ・リッツ・カールトンのホスピタリティの高いホテル運営のルーツが日本の旅館の女将さんであることを思い出す。ザ・リッツ・カールトンは,そのホスピタリティを1棟のホテルの中で提供している。一方の矢掛の宿場町は,江戸時代に参勤交代で850人が一堂に泊まることができた一大宿泊拠点である。宿場町は町全体で850人が分泊できるホテルとみなせる。こんな古民家をホテルに設え,社員もいないところで本当に可能なのか,自信はなかったものの,宿場町の機能を今に残しているのがこれらの古民家であれば,宿場の再現はできるのかもしれないと安達氏は考えていた。

2. 400年の時を超えて蘇る宿場町の再生

翌2013年,矢掛町は,改修した3軒の古民家のうち2棟を宿泊施設として運営する計画を示し,運営事業者を全国から公募することにした。1棟は2014年4月に「やかげ町家交流館」として開設が予定されていた。宿場町でありながら約半世紀の間宿泊施設がなかった宿場町を,再び宿場町として復活させようとする計画である。公募には,安達氏を含む計5件の応募があり,矢掛町全体を機能分散型宿泊施設とみなし,町全体をホテル矢掛と呼んで事業運営を行うとした安達氏の案が採用された。

安達氏は,矢掛町の規模がザ・リッツ・カールトンで学んだホスピタリティの本質が発揮できる規模であることにも着目し,宿場町を「世界最古の団体宿泊のホテル施設」と解釈した。民家をリノベーションした交流施設にフロント機能を置き,街道は廊下と見立て,宿泊施設と温浴施設を行き来することで町全体をホテルに見立てた。安達氏が重視したのは,一事業者が観光施設としてホテル運営するのではなく,地域に住まう人たちと一緒に町を創っていく点だった。宿場町の空き家に,ジグソーパズルのピースのように宿泊,飲食,ビジターセンターをはめこみ,宿泊者が住むように泊まれる古民家ストリートをつくる。宿場町全体でひとつのホテルのような機能を持たせるこの事業は,雇用が生まれ域外からの売上が立つため,コミュニティが永続する仕組みだと示した。これまでの安達氏のホテル再生の経験やノウハウ,幾度となく矢掛町を訪れる中で安達氏が辿り着いたコンセプトだった。こうして,安達氏が立案した「町ごとホテル」の事業が矢掛町で進められていくことになった。

商店街内の交流館でプロジェクト説明会を開くことになった。矢掛町で生まれ育ったというある女性は,説明会で「町ごとホテル」という事業計画を聞いた時,「ワクワクした」という。自分が子供の頃に子守をしてもらった民家がホテルになり旅行者が宿泊する計画に驚くと同時に,これからの矢掛町の変化を期待して,支援を伝えた。とはいえ,事業は当初から多くの支援者が集まったわけではなく,この女性のような支援者を1人1人見出していくことから進めていく必要があった。

プロジェクトを地域との共創として軌道に乗せるために安達氏が重視していたのが,手が届きそうな将来像をビジョンとして示すことだった。そのため,約10年間の計画をロードマップとして描いて示すことにした。安達氏が銀行勤務時代にホテル支援で会得したホテル経営のノウハウを活かして作成した計画である。更に,この10年間の計画を実践する中で安達氏が地域再生の要件として重視するようになったのが,①行政が考える方向性,②地域コミュニティが考える方向性,③委託事業者が考える方向性の3要素の同期化だった。矢掛町で言えば,①は町有化していた古民家の活用による町の活性化,②はコミュニティの維持と雇用の確保,③は運営事業者のコンセプトと収益化である。安達氏は,運営事業者による古民家のホテル化による収益は,目的ではなく雇用の創出や地域での暮らしの維持のための手段と位置づけて事業を定義したビジョンを示した。このようなビジョンを示しながら,事業の公共性に対する理解や事業の支援者を得ようと,粘り強く説明を重ねていく。

計画を進めていく中で,歴史の裏付けによるストーリー作りで事業を支えるアクターと出会う。日本航空株式会社に勤務したのち,歯科医や美容院を経営していた妻の実家がある矢掛町に移住していた金子晴彦氏である。同氏は,日本航空勤務時代に,赴任先の香港で業務の合間に日本人向けの現地ガイドブックを編集するなど緻密な取材から地域資源にストーリーを付与することに長けた人物である。矢掛町の町づくりの要として,地域に根差した歴史に基づくストーリーづくりと古民家を再生する技術陣のふたつが重要だと考えていた安達氏にとって,金子氏は歴史的な背景や成り立ちという視点から町並みに由緒ある宿場町としてのストーリーを加えることのできる重要なアクターになる。

安達氏の計画を聞いた金子氏は,矢掛町の歴史に強い関心を示し,宿場だった家を1軒1軒訪問し,その家の歴史を紐解いていった。同時に宿場町としての400年前の機能も明らかにしていった。「ここは馬が通っていた道だ。石積みからするとこの辺りが船着き場のポイントになる。船着き場から魚を運ぶ導線や水道はここだ」など,当時の宿場町の機能を現在の町並みや路地にトレースしていった。金子氏が古文書から読み解く矢掛町の歴史は,ただ古いだけの状態だった古民家にストーリーを与えた。宿場町に宿る事実を歴史好きの移住者が新たな見立てで明らかにしていったことで,地域に住む町民は自分の家のルーツを再認識し,自負する機会にもなり,協力者を得る武器にもなった。この歴史的な裏付けによって,宿場町再現事業はリアリティを伴って進んでいく。

新たな協力者を得たものの,安達氏が苦戦していたのがホテルのオペレーションを司る人材の確保である。オープン直前になってもなかなかスタッフが整わない状態で,候補者との面談に辿り着いても,すんなりとは採用まで至らなかった。例えば,地元の団体職員だった八杉照美氏である。安達氏は,同氏との面談で「事業成功の根拠を示してほしい。この町に根付く根拠を示してほしい。事業が計画通りにいかない場合,雇用された自分はどうなるのか」など,次々と厳しい質問を受けたという。この地に住まい,地域で営みを続けるからこその当然の質問だった。3時間近く話しても「成功するかどうかはやってみなければわからない」としか言えない。八杉氏は周囲の人から「本当にそんなところに就職して大丈夫なのか」と言われていたという。当時は事業に対する疑念も見受けられた。

安達氏は,八杉氏や周囲の疑念を払拭するために,矢掛町に一緒に住む町民として事業を進めていくことを決め,矢掛町に住民票を移すことにした。更に,矢掛町に在籍し,「町ごとホテル」の事業運営を行う株式会社矢掛屋を設立する。この地から逃げない覚悟を示したこの決断は,古民家のホテル化による収益を手段として地域の雇用創出や地域の暮らしの維持を果たすとした安達氏のビジョンへの信頼を生み,八杉氏はようやく入社を決めた。

更に,オープンに向けて徐々に支援者も現われ始めた。地元の人間関係の構図4)を教えてくれた人もいた。知り合いに声をかけてオープン時に飾るお雛様を集めたり,接客に不慣れなスタッフへお客様対応の所作を伝えるなどしてオペレーションの体制は徐々に整備されていった。こうして,町保有の古民家は,2014年4月,「やかげ町家交流館」,2015年3月,宿泊施設の「矢掛屋INN & SUITES」,温浴施設の「矢掛屋別館湯の華温泉」として蘇った。

3. 自走を始める宿場町の再生

当初,町が念頭に置いていた3軒の古民家は再生を果たした。一方,安達氏が考えていた「町ごとホテル」にするため,町が改修した古民家に加えて,更なる古民家も取り込んでいこうと考えた。ここから,宿場町の再生事業は町の当初の想定以上に自走を始める。

安達氏は町内でホテルの機能の一部を充たせる施設候補の古民家を探索していた。街道沿いに老舗材木店が所有する倉庫があった。所有者は,矢掛町の古民家のリノベーションにも多く関わっていた一級建築士筒井槇一氏である。安達氏は,筒井氏に,ここに新たにバンケット機能を持たせた施設を計画したいと提案した。実は,筒井氏はかねてから「矢掛町にとどまらず,瀬戸内海というゾーンまで広げて町の価値を考えることが必要だ」という地域振興に関する独自の考えを持っていた。そのため,筒井氏が「町ごとホテル」の説明を受けた時,自分の考えを実行できる第一歩になるのではと感じ,自身が所有する倉庫をバンケット施設に再生する提案を受け入れようと考えたのだという。

この活動に対して町も支援を試みる。安達氏と筒井氏は当初,銀行の支援だけで筒井氏所有の古民家再生計画を進めていたが,二人の計画を知った山野町長が,支援できる方法を模索し,中国経済産業局に「平成28年度地域まちなか商業活性化支援事業補助金」があることを突き止め,両氏に知らせたのである。山野町長にも,町全体で観光施設の生成を推進していきたい考えがあった。元々,矢掛町の観光は旧矢掛本陣石井家住宅と旧矢掛脇本陣旧高草家住宅だけを観光客の呼び込みの対象としていてやや戦略性に欠ける状態だった。一部の観光資源に依存した状態から脱却し,観光行政に統率力をもたせる必要があると考えていた町長は,役場内に産業観光課を新設し,町全体で観光施策を強化して町の活性化を図ろうとしていた。それゆえ,施設のリノベーションを試みる両氏の自走を側面から支援した。

これを受けた両氏は,地元商工会の理解も得て補助金の申請書を提出し,無事採択された。「町ごとホテル」の新たな機能であるバンケット施設は,「矢掛豊穣あかつきの蔵」として翌年4月に開設され,またひとつ宿場町の再生にむけた資源が生み出された。同時期には「備中屋長衛門」も宿泊施設として開設された。「町ごとホテル」をさらに進めるにあたり,筒井氏と安達氏は街道沿いの空き家に対して店舗としての活用交渉を進めていき,筒井氏が独自に古い家を見せて貰うお願いに回ったこともあった。

これらの活動とは別で,商店街も,町の方針にあわせるように独自に観光振興に取り組んでいた。矢掛町の商店街は,街道沿いにあり宿場町の面影を残している。文具店を営む佐伯氏がリーダーとなり,2016年に「やかげまるごと観光隊」を立ち上げ,例えば矢掛の一大イベントである「矢掛の宿場まつり大名行列」をサンフランシスコで行う活動を企画し,外国人観光客に対する矢掛町の観光推進役を担った。2016年に計画が立ちあがった道の駅の計画では,佐伯氏は商店街住民の意向を汲み取り,全国でも例を見ない物販を行わないというユニークな道の駅の実現に寄与している。道の駅の計画が立ちあがった際,道の駅での物販は商店街と競合関係に陥ることが危惧された。佐伯氏は,商店街全体を道の駅と捉え,道の駅では物販を行わず,展示してある商品を見て関心を持った観光客を商店街に呼び込んで町内での回遊性ある観光行動を促す施策を町長に提案し,町長もそれに応じた。加えて,すでに別件でつながりを持っていた安達氏の紹介で国土交通省の担当者と意見交換する機会を得た。商店街としても,町長が物販しない道の駅案を決断した以上,自分たちも町が進める観光施策により積極的に関与していく意欲を示す。佐伯氏は観光地として恩恵を受ける商店の増加を目標に掲げ,空き家や空き店舗があれば,店舗として利用する希望者を仲介して空き店舗の増加を防いできた。空き店舗が多いと街道の魅力は低下するが,最近では貸したいという相談も入るようになり,商店街の古民家利用のマッチメーカーとなっている。

「町ごとホテル」としての機能が増えるにつれて,街道には付帯的機能ともいえる飲食店等の出店が増えてきた。例えばカフェ「t2Lab.」を開いた筒井氏の次男は,この町で店を開こうと考えたのは,町の魅力が高まったからこそだという。このような飲食店等の出店を,商店街や町も支援策を厚くして対応している。例えば,2019年4月に新しくオープンしたチョコレート店「石挽カカオissai(以下issaiと表記)」である。

issaiは,地元産の御影石の石臼で挽いたカカオから作るチョコレートを販売して人気店となっている。店主の松村晃泰氏が矢掛町への出店を検討するきっかけになったのは,ザ・のみぎりズム2016という御影石を彫刻する公開芸術イベントだった。石の需要喚起と若手芸術家の発表の機会作りを目的に,松村氏が企画し,矢掛町で石材会社を営む井上石材有限会社の井上太郎氏の協力により実現した公開芸術作品制作イベントで,9人の芸術家が集まり,2週間石の彫刻の公開イベントを行った。

商店街は,このイベント開催や芸術家の受け入れに手厚い支援を用意し,町も適用できる補助金で支援した。商店街の飲食店は,2週間の滞在に際しては昼食を500円で提供し,安達氏は宿泊施設として,のちに開業する備中屋長衛門や,湯の華温泉を無料で提供した。500円ランチは芸術家たちに大変好評で,そのお返しとして夕食に利用するという好循環も生まれた。矢掛町の支援制度も空き家を活用した新規出店を促している。週3日以上の営業と最低4年間の営業を条件に店舗改装の2/3を補助する。この補助金の申請などを担当していたのは産業観光課である。同課は,町外からの移住や出店者に丁寧に対応してきた。「小さな町だからこそ相談へのレスポンスも早く,アドバイスもくれる。大きな自治体だと時間がかかったり,融通がきかず諦めてしまうこともある。相談しがいもあり助けられた」とissaiの松村氏は語る。

4. 予期せぬ事業定義:「町ごとホテル」の実践が創り出したADとの邂逅

このように矢掛町で「町ごとホテル」を構成する施設は増えていったのだが,ADとの接点は全くない中で取り組みは進められてきた。「町ごとホテル」の事業がADと接点を持つ契機は,岡山の株式会社リョービツアーズ,トゥッタ・イタリアカンパニーの五十嵐治子氏が,外国人観光客向けの観光地を探していたことである。同社では,日本人観光客をイタリアに誘客する目的でイタリアの魅力ある小さな村の発掘を行っており,その業務の中で五十嵐氏は,ADに詳しかった「日本で最も美しい村」常務理事長谷川昭憲氏から,イタリアのADやAD協会会長Giancarlo Dall’ Ara氏の存在を紹介されていた。五十嵐氏はDall’ Ara氏に会ってADの魅力を学び感銘を受け,その後ADに関するシンポジウムなどでDall’ Ara氏の通訳を務めたり,日本で初めてイタリアのADを旅の素材として商品化していた。同時に,外国人観光客を国内に誘客するインバウンド観光への取組みとして,株式会社リョービツアーズ発行の外国人向け英字観光情報誌『Visit West Japan』で,西日本エリアの観光地の魅力を紹介する取り組みを行っていた。特に注力していたのは,日本に2回目以降に来られる方が本物を見たいといって訪れる,小さく,伝統的な日本らしさを残した地域の紹介だった。同氏は本社のある岡山県内で相応しい観光地を探していたところ『Visit West Japan』の編集者から矢掛町を紹介され,2017年12月に金子氏の案内で町を歩いた。矢掛町は宿場町で,ホテルに資する機能は元々街道に分散しており,宿泊した矢掛屋は安全性と快適性が担保されている。町民の旅行者に対するホスピタリティも高く,宿場町の商店には一軒一軒江戸時代の佇まいのイラストが掲げられていて町民の地域に対する愛情が感じられた。この地は町全体で旅行客を自然体で受け入れるADそのものだと感じたという。

これを受けて,五十嵐氏は,ADを紹介した長谷川氏を介してDall’Ara氏に矢掛町の事例を紹介したところ,アジアでAD候補をつくりたかった思惑とも合致して,2018年2月に長谷川氏が矢掛町を訪れ「矢掛屋」に宿泊してADのコンセプトに適うことが確認された。長谷川氏の報告を受け,同年6月にDall’Ara氏ほかAD調査団が矢掛町を訪れ,アジア初の公式ADに正式認定された。同時に,矢掛町は世界で初めてのADタウンとして認定された。岡山県内の他の地域も同時期に視察されたものの,元々の「町ごとホテル」のコンセプトがADのそれと近しいことが高く評価された。安達氏の目指していたまちづくりが,ADの概念そのものだった。こうして,「町ごとホテル」の事業に従事してきたアクターたちがそれまで全く想定していなかったADという事業定義が,矢掛町や「町ごとホテル」の事業に付与されることになったのである。

矢掛町の「町ごとホテル」の事業は,ADと再定義されたことで,宿場町再生という目的にむけて新たなスケールが与えられた。というのも,ADには,クォリティ維持のための9つの厳格なルールが設定されている。クリアできない場合には,認定の取り消しの可能性もある。生きたコミュニティが存在すること,地域の文化に統合された経営スタイルがあることなどである。矢掛町とADが目指している方向性は偶然にも全く同じだったが,ADと再定義されたことで「町ごとホテル」の事業運営はより明確になっていく。宿泊施設には高い快適性と安全性が求められる。このルールにより宿泊施設の実践の中でクォリティを高める施策を課せる。ADは町が一体となって宿泊客をコミュニティとして受け入れる姿勢を求める。これまで取り組んで来た活動は,ADらしいかどうかという基準に準拠して磨きがかけられ,この事業に関わるアクターたちの自らの活動に対する認識も変化していった。

ADタウンとして認定されて統一性のある明確な方向性が示されたことで,矢掛町の観光施策にもより推進力がかかってきた。例えば,2018年8月には,古民家を改装した新たな宿泊施設である蔵INNと蔵INN-家紋が開設された。2020年12年には,先代の町長から30年越しの目標だった重要伝統的建造物群保存地区(文化庁)に登録された。2021年3月には無電柱化工事が完了し,国交省道の駅「山陽道やかげ宿」が開設された。物販を行わず,宿場町へのゲートウェイとして案内機能のみに特化し,宿場町の商店街全体を売り場と捉えて回遊してもらうことを企図した,全国でも例を見ない施設である5)

国立社会保障・人口問題研究所による2020年の矢掛町の推計人口13,325人に対して,実際の人口は14,161人(2020年1月1日)であり,人口減少にも歯止めがかかった。ADと再定義されたことでカフェやショップ,工房などを新たに開きたいとする地域外部の経営者からの注目も集めている。矢掛町の出店に対する支援制度は手厚く継続されており,古い町並みを活かしたオシャレなエリアとして認識され始めている。宿場町の風情を残す中心部周辺では,町が支援制度を整備して以降,2019年までにカフェやネイルサロン,雑貨店や家具の販売店など12件の新規出店があった6)。2019年に矢掛町を訪れた観光客の数は33万4千人で,2013年の1.8倍となっている(Sanyo Shinbun, 2021)。

また,町の観光施策を推進していくため,2019年4月に町出資による「一般財団法人矢掛町観光交流推進機構(やかげDMO)」が発足し,理事長に金子氏が就任した。町の魅力が深まり,より統合的で戦略的な観光地経営を行う必要性から生まれた新たな取り組みである。2021年1月には,観光庁の「誘客多角化等のための魅力的な滞在コンテンツ造成実証事業」としてワーケーションイベント「ワーケーションリゾート備中矢掛」が実施され,ANA総研という新たなアクターの見立てによる町の新たな可能性が検討され始めている。

矢掛町はコンパクトな町である。そのため,当地での滞在時間を増やし,より宿場としての魅力を高めるには周囲のエリアとの連携した取り組みの必要性も強く意識されるようになった。矢掛町に加え,美しい星空が観測できる旧美星町(現井原市美星町),欧州の高級ブランドにも提供されているデニムの産地である井原市,瀬戸内海に浮かぶ笠岡諸島7)までを1つのエリアとして設定して「1-setouchi」と呼び,エリア全体で魅力を高めていこうとする取り組みが始まっている。ADと再定義されたことで,これまで矢掛町内で取り組んで来た事業に推進力が付いただけでなく,当事者たちが活動対象と認識するエリアが近隣周辺地域も含んだエリアへと拡張され,更なる可能性に開かれようとしている。

III. おわりに

これまで,矢掛町におけるADの発展プロセスを確認してきた。第一に,これまでのプロセスを振り返ってみると,活動は,ADを念頭において進められてきたわけではなく,むしろ取り組みの結果ADとの接点が生まれたことが分かる。事業は,当初は,町所有の古民家のリノベーションによる活用策の検討を中心として進み,そこから「町ごとホテル」の実現に向けて自走し始めて機能分散型宿泊施設を構成するさまざまな施設が生成していった。このような取り組みが,結果としてADとの接点を生み出したのである。ADは,事業の前提というよりも,各アクターがそれぞれ当座の目標の下でその都度手持ちの資源をやりくりしながら行動したことで生まれた成果であると言える。繰り返される事業の再定義によって,地域では当初想定していなかった新しい可能性,ADタウンとしての矢掛町へと開かれていった。ADという新たな事業定義は,活動を評価する明確なスケールを提供することで,さまざまな関係性を取り纏めて個々の活動をより先鋭的に方向付けている。

また,ADという新しい事業定義は,当事者たちが活動対象として認識するエリアも変えた。当初矢掛町内だけだった活動エリアは,矢掛を含む近隣へと拡張した。「町ごとホテル」の名のもとで行われた実践の集積がADとの邂逅を生み出し,「AD」の名のもとで事業を改めて眺めることで,近隣を含んだ活動の重要性がより意識され,更なる可能性の模索が進められている。当事者たちのエリアの認識も,活動を通じて逐次的に再構築されている(Andéhn, Hietanen, & Lucarelli, 2020)ように見える。

第二に,これまでの過程の中で,当初は想定しなかったアクターが生成していることや,安達氏以外のアクター同士の関係が安達氏とアクター間の関係性のあり方を左右してきたことも分かる。安達氏は,「町ごとホテル」の事業を始めるにあたり,すべてのアクターやその役割を事前に認識していたわけではない。これもまた事業の途上でそれぞれが活動することで生成し,取り組みの途上で新たな役割を担い始めていた。金子氏は安達氏の事業内容から自身の歴史に対する強い関心を顕在化させてこの事業に参画し始め,筒井氏も同じく安達氏の説明を契機にかねてからの町の地域振興に対する独自の考えを顕在化させて参画し,両氏共に単独で「町ごとホテル」を構成する資源の探索を始めた。金子氏による歴史に裏打ちされたストーリーが,ただ古いだけだった古民家を「町ごとホテル」の事業に資する資源へと変容させていった。アクター間の関係も少なからずADの発展プロセスに大きな影響を及ぼしている。例えば,山野町長は,安達氏の事業だけでなく商店街の活動にむけてもその都度活動を支援する取り組みを推進してきた。商店街の佐伯氏は,町長の推進する町の活性化施策に賛同し,旧来からの地域住民との連動のもと商店街としての活動を積極的に推進し実施している。安達氏と各アクターとのダイアドの関係だけでなく,佐伯氏と山野町長といった他のアクター同士の関係も含めたネットワーク状の関係性にも注視することで,事業の全体像の構成・変容過程をより理解できる(Hidaka & Mizukoshi, 2014)。

矢掛町におけるADの発展プロセスは,さまざまな関係性のもとで多様なアクターが見いだされて事業の全体像が構成されていくとともに,構成された全体像が更なる活動の起点となっていくという動的なプロセス(Hidaka & Mizukoshi, 2014; Ishii, 2009)を辿ってきたと考えることができる。

謝辞

本研究に際し,矢掛町長山野通彦様,株式会社シャンテ 代表取締役CEO安達精治様,有限会社筒井アーク工業代表取締役筒井槇一様,一般社団法人矢掛町観光交流推進機理事長金子晴彦様,一般社団法人やかげまるごと商店街振興会代表理事佐伯健次郎様,佐藤玉雲堂佐藤映子様,イヤシマユウエン合同会社松村晃泰様,同大間光記様,株式会社リョービツアーズトゥッタ・イタリアカンパニーチーフマネージャー五十嵐治子様(順不同)には,貴重な資料を提供頂いたほか,インタビューに快く応じて頂きました。記して感謝申し上げます。なお,本研究は,JSPS科学研究費補助金(課題番号18K01878)の助成を受けて行った研究成果の一部です。

1)  矢掛町は,岡山県南西部に位置し,周囲を自然豊かな里山に囲まれた人口約1万4,000人ほどの町である。江戸時代には,町の中心を流れる小田川沿いに走る旧山陽道の宿場町として栄え,往時を偲ばせる約1キロほどのこの地区が現在も町の中心となっている(Yakage Town, n.d.)。町の中心には,旧矢掛本陣石井家住宅と本陣を補佐した旧矢掛脇本陣髙草家住宅が共に現存し,日本で唯一本陣と脇本陣の両方が国の重要文化財に指定されている(Yakagechoshi hensan iinkai, 1980)。

3)  本研究の主な質的データは,謝辞に記載の計9名の方々を対象とした半構造化インタビュー調査による。内容を補足的に確認するため,公開データ等も利用しつつ調査を進めた。インタビューは2020年12月から2021年6月に実施し,内容は録音してテキストに書き起こした。また,内容の再確認も適宜行った。インタビュー時間の総量は約700分,テキストで約22.7万字である。

4)  矢掛には,「百手講(ももてこう)」と呼ばれる,50人(百の手)を1組として組織的にコミュニティの維持運営に携わる組織が昔から息づいてきたという。例えば町内で子供が生まれたり物故者が出るといった行事ごとが生じた際に百手内を取り纏めて意思決定する,いわば町内会組織のような存在である。安達氏は,矢掛では町内の関係性が長年の百手講を通じて培われてきたこと,この関係性は良いものも悪いものも含めて今でも色濃く残っており,それぞれにバランスを保ちながら生活を営んでいることを,町内のある家の奥さんから具体的かつ詳細に教えてもらえたのだという。この説明を聞いた安達氏は,以後矢掛で自身の事業を進めるにあたっては,矢掛に根付くこの伝統的な関係性を念頭に置いて,協力者の選定や相手への依頼の方法の検討にあたってきたという。

5)  矢掛町の実践を契機に,AD自体も拡張の足がかりをつくっている。2019年6月,岡山商工会議所に事務局を設置し,イタリア以外では初のAD推進組織として一般社団法人ADジャパンが発足している。

6)  また,2015年から『矢掛町空き家バンク登録物件(制度)』による移住実績は157人となっている。

7)  笠岡諸島に浮かぶ白石島では,矢掛町で実現した「町ごとホテル」と同様の活動が「島ごとホテル」として取り組まれ,海のADの実現が目指されている。

神田 將志(かんだ まさし)

近畿大学商経学部経営学科卒業,株式会社岡山毎日広告社(現株式会社ビザビ)入社,同社研究機関岡山情報文化研究所所属。岡山大学大学院社会文化科学研究科博士前期課程在学中。

日高 優一郎(ひだか ゆういちろう)

神戸大学大学院経営学研究科博士課程後期課程修了,博士(商学)。山梨学院大学を経て現職。専門は消費者行動論・ソーシャル・マーケティングなど。

References
 
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