2022 年 41 巻 4 号 p. 106-115
環境変化への対応は,企業経営の永遠の課題である。本業消失の危機に瀕するほどの環境変化に直面した企業は,どのように対応すべきであろうか。この問いに対するひとつの答えを,富士フイルム株式会社において「第二の創業」と呼ばれる事業転換の試みにみることができる。同社はこの試みを通じ,専門分野の違いをこえて自社の強みを伝えることができる共通言語の重要性を認識し,自社社員から社外の法人顧客まで巻き込む相互作用の基盤づくりに注力した結果,Open Innovation Hubの開設にいたった。その試行錯誤のプロセスについては,バウンダリー・オブジェクトを生み出し進化させていくプロセスとしてみることができる一方,そのプロセスに少なからず影響を与えるバウンダリー・スパナーの存在がみられる。
Responding to changes in the environment is an ongoing issue for corporate management. The key question is how should a company face a change in the environment that threatens its core business? One answer to this question can be seen in the attempt at business transformation referred to as “The Second Foundation” at Fujifilm Corporation. In this approach, the company recognized the importance of a common language that can convey its strengths beyond differences in specialized fields, as a result of focusing on building a foundation for interaction that involves its employees and external corporate customers. This led to opening of the Open Innovation Hub. The trial and error approach can be seen as a process of creating and evolving boundary objects, while a boundary spanner with considerable influence on this process is also apparent.
Open Innovation Hubの「タッチゾーン」
出典:富士フイルム(株) FUJIFILM Open Innovation Hub HPより
東京都心の立地ながら,オフィスや商業施設に加えてホテルや美術館,比較的広大な緑地を擁する東京ミッドタウン。その一角に本社を構えるのが,富士フイルム株式会社である。エントランスを入ると,正面奥に来客受付カウンターがあり,そこを経て訪問先の部署へ案内されるようになっている。その一方で,来客受付カウンターに向かって左手から階段を上っていく訪問客を目にすることがあるかもしれない。
階段を上った先にある施設こそ,富士フイルム株式会社(以下,富士フイルム)が,創立80周年を2014年に迎えて,新たなコーポレートスローガン「Value from Innovation」を掲げるとともに開設したOpen Innovation Hubである。「Value from Innovation」に込められた思いが,同社のホームページにおけるブランドステートメントの中で次のように語られているが,それはOpen Innovation Hubの開設に込められた思いでもあるといえる。
「独自の技術,世界中から集まる人・知恵・技術をオープンかつスピーディーに融合し,柔軟な発想でイノベーションを起こしていきます」。
富士フイルムといえば,2006年に変更されるまでの旧社名である富士写真フイルム株式会社が物語るように,写真フィルム市場を長年にわたって主力の事業領域としてきた企業である。今世紀に入って世界的規模で急激に進んだデジタル化の波は,同市場の急激な縮小をもたらした。その凄まじさは,2001年にポラロイドが,2012年には同市場の世界的なトップ企業であったコダックが,いずれも経営破綻に追い込まれたことからもわかる。同様に本業消失の危機に瀕した富士フイルムであるが,ヘルスケアや化粧品に代表される新たな市場を目指す事業転換により企業としての存続を果たしたことは,周知のとおりである。
新たな市場への対応は,富士フイルムほど深刻な危機に瀕せずとも,多くの企業に共通の課題であるものの,決して容易なことではない。それは新たな顧客への対応を意味し,また新たな取引先を必要とする。彼らの視点は,従来の顧客や取引先のそれと異なることが多い。すなわち,新たな市場への対応は,異なる視点を持った主体の間でものの見方を収束させるとともに,異なる視点を融合して新しい価値を生み出すことが求められるのである。このように多様な主体を巻き込む相互作用が活発に行われるようになる可能性の鍵は,その基盤となる共通言語が握っている。新たな市場を目指す事業転換に取り組んできた富士フイルムには,社内のスタッフから社外の法人顧客まで巻き込む相互作用の基盤を整えるために,社内外における共通言語づくりに向けての努力がみられる。その結果として,同社がOpen Innovation Hubを開設するにいたるまでの試行錯誤を振り返る。
1934年,当時輸入に頼っていた報道・映画用のフィルムの国産化を使命に,大日本セルロイド株式会社の写真フィルム事業が分離され,富士写真フイルム株式会社(以下富士写真フイルム)として独立した。1934年にグラヴィア製版用ポジフィルム,1936年には医療用X線フィルムを本格的に生産,販売も開始した。
銀塩感光材料1)メーカーとして出発したが,レンズの素材からカメラ製造に至るまでの一貫生産を企図し,1940年光学ガラスの製造に成功し,その後,既存の光学機械メーカーを系列に加える一方,1944年には,光学機器を製造する富士写真光機株式会社を設立した。当時,銀塩感光材料とレンズ・カメラの両方を製造するメーカーはコダックと富士写真フィルムのみであり,総合写真工業会社として発展していくこととなった。
1959年,富士写真フィルムで試作した2インチビデオテープがNHK技術研究所での録画・再生テストに成功し,1963年NHKに正式納入されたのをきっかけに,民間放送局にも相次いで採用された。その後,磁気録音テープやコンピューター用磁気テープも開発した富士写真フイルムは,総合磁気記録材料メーカーとしての基盤を確立した。
また,電子写真にいち早く着目した富士写真フイルムは,合弁会社として富士ゼロックス株式会社(以下富士ゼロックス)を1962年に設立した。当初は,製造を富士写真フイルムが,販売を富士ゼロックスがそれぞれ担当するかたちで出発したが,電子複写機の急成長を受けて,製造部門を富士ゼロックスへ1971年に移管することにより製造・販売の一体化をはかり,大きな飛躍を遂げていくことになった。
2. デジタル・トランスフォーメーションへの対応銀塩感光材料事業が全盛期を迎えていた1980年代,デジタル化の流れを不可避と考えた富士写真フイルムは,自前主義でその対応,すなわち商品化を目指し,新技術の開発にも備えた。
第1次石油危機は銀価格の高騰をもたらしたため,X線フィルムのデジタル化を目指す研究開発投資が1975年に開始された。X線情報を何らかの材料で受け取り,それをレーザー光線で読み取ってデジタル信号化し,コンピューターで画像処理を行うという基本構想を自社技術で実現するために,画像センサー,電気信号に変換する画像読み取りシステム,その画像情報を診断可能な画像として再構成するための画像処理アルゴリズムという3つの要素の開発を始めた。
1983年に発売したFCR(Fuji Computed Radiography)は,従来のアナログによるX線写真と比べて,診断精度の向上,受診者の被ばく線量の減少,新たな診断方法の開発,医療画像を病院間で共有するネットワークシステムの構築を可能とした。また,医療分野の画像診断のデジタル化およびネットワーク化を積極的に進め,医療現場における診療の効率化と質の向上に貢献した。業務用分野である印刷においても,それまでのフィルム製版に代わりコンピューターによって刷版に直接描画する製版装置が,1995年に発売された。
写真のフルデジタル化についていえば,世界初のフルデジタルカメラ「FUJIX DS-1P」を1988年に開発した。また,撮像素子からの入力による銀塩ネガフィルムのデジタル画像や電子スチルカメラからのデジタル画像などを画像処理により自由に編集処理し,独自に開発した青色レーザー光源と緑・赤色のレーザー光源を組み合わせた走査露光により銀塩感光材料に直接プリントするシステムを自社で開発し,世界で初めて1996年に市場への導入を果たした。さらに,インターネットによるプリント注文サービスやコンパクトディスクによる画像保存サービスを自社で開発し,市場に展開した。
このように,医療や印刷システムの機器事業を強化し,また民生用の電子映像事業へ参入し,さらにプリントサービスのデジタル化に対応するなど,デジタル・トランスフォメーションへの対応が,既存ビジネスの延長線上の市場や販路の活用を伴いつつ,自社による技術開発によって進められていった。
3. 現在の概要2006年10月1日,富士フイルムは,事業を引き継ぐ事業会社となる富士フイルムと富士ゼロックスを傘下に束ねる富士フイルムホールディングス株式会社(以下富士フイルムホールディングス)に商号を変更して純粋持株会社となった。登記上の本店も,創業の地である神奈川県南足柄市(旧・足柄上郡南足柄町)から東京都港区へ移転した。2007年には,富士フイルムおよび富士ゼロックスの本社を六本木の東京ミッドタウンの新社屋へ移転するとともに集約した。創立80周年にあたる2014年には,新たなステートメントValue from Innovationを発表するとともにOpen innovation Hubを開設した。また2021年に,富士ゼロックスが,その社名を富士フイルムビジネスイノベーション株式会社へ変更した。富士フイルムホールディングスの2021年3月期の決算では,連結売上高が約2兆1,925億円,営業利益が約1,655億円,連結正社員数が約73,000名,連結子会社数が310社となっている(FUJIFILM HD Corp., 2021)。
写真フィルム事業は,富士フイルムの売り上げの6割,利益の3分の2を占める屋台骨だったが,デジタル化の逆風に直面した。世界の写真フィルム需要は,2000年をピークに年率20%~30%のペースで急減,2006年の時点で半減,2010年には10分の1以下にまで縮小するにいたった。富士写真フイルムは,本業消失の危機に陥ったのである。
2000年に社長に就任した古森重隆(現富士フイルムホールディングス最高顧問)は,2004年に中期経営計画「VISION75」を発表した。各事業の持続的な成長により,全社の売上高を3.5兆円,利益率を10%以上とする目標が掲げられた。計画の中心には社員のパワーアップ・活性化が置かれ,構造改革,連結経営の強化,新たな成長戦略が3本柱とされた(図1)。新たな成長戦略の1つが新規事業の創出であり,自社技術の強みを活かしつつM&Aや他社とのアライアンスを積極的に行う「研究開発体制の再構築」を目指すものであった。
「VISION75」を実現するための3つの柱
出典:富士フイルムホールディングス(株)(2004) 中期経営計画説明会 中期経営計画「VISION75~新たなる出発~」(IR siryou)より抜粋
発表してから2年後の2006年における中期経営計画「VISION75」レビューでは,2009年が「第二の創業」のマイルストーンとされ,既存の市場と新規の市場,既存の技術と新規の技術の組み合わせによる各事業の検討がなされた。重点事業分野の策定にあたっては,成長市場であるか,対応する技術(市場への知識)があるか,持続的な競争力があるかという3つの点が重視された。ヘルスケアや高機能材料,ドキュメントなど重点事業分野を明確にした上で開発投資を進める一方,既存事業のリストラを実施した。
また,古森社長(当時)は,知恵を融合して新しい価値を創ることがこれから重要になるとして,「融知・創新」と呼ぶコンセプトを打ち出した。このコンセプトは,社内の知のダイバーシティを最大限に活用するものであった。新たに設置されたR&D統括本部の技術戦略部が中心となり,新規事業を創出するにあたって自社技術の棚卸を実施した。また,「融知・創新」のコンセプトを体現する先進研究所を開設した。
特に「ヘルスケア事業への参入」,「新規事業を創出する自社技術の棚卸」,「研究開発体制の再構築(先進研究所の開設)」は,同時並行して2004年から2006年まで進められた。従来の技術開発は自前主義によるものであったが,自社の強みとして持っている技術と法人顧客が抱える課題を掛け合わせることによって,事業の出口を柔軟に探る方針へ転じていった。
2. ヘルスケア事業への参入重点領域としたヘルスケア事業については,画像診断の分野で長年の実績があるなかで,サプリメントや機能性化粧品を開発し,生活習慣病や老化の予防に取り組むことを考えた。写真の主成分は人の肌と同じコラーゲンであって,研究開発の知見やこれまでの技術の活用が期待できるため,スキンケア化粧品の自社開発が可能であると判断した。この判断は,事業転換へ踏み出す第1歩であるとともに,一般消費者と接点を持つブランドの育成という象徴的な意味合いもあり,社内における意識改革の旗印となった。この新市場への参入によって目指すべき会社の姿をトータルヘルスケアカンパニーと定めて牽引したのが,戸田雄三執行役員ライフサイエンス研究所長(当時)である。彼は,動物由来のため工業製品としての品質のばらつきのあったゼラチンを安定的に製造することで品質の均一化に成功した実績に基づいて,コラーゲンの知見が活かせるスキンケア化粧品事業への参入を経営層に対して提案した。この提案が必ずしも突飛なものにならなかったのは,1936年以来のレントゲン関連技術で培われてきた診断分野で予防への取り組みが行われていたことが背景にある。化粧品事業への進出という大きな事業戦略を描く一方で,そのロードマップは確実性の高いスキンケア化粧品市場への参入から始めるとした彼の提案は,経営層の共感を得やすいものであったことも大きい。
ヘルスケア事業への参入において重視されたことが2つある。1つは,近接(技術)領域である。化粧品の場合,写真フィルムで培った共通のナノ乳化分散技術の活用からスタートした。もう1つは,多額の初期投資を伴わずに始めることである。そのために自社にこだわることなく,製造,営業,マーケティング,PR,いずれも外部の力を活用した。まず画像診断支援という先進技術への信頼を医療分野で獲得してから,検査や創薬,再生医療への手を広げていくことにより,人の命に関わっていく企業として注目を集めることができた。そこには,異業種参入にあたって,信頼性とストーリー性を重視するブランド戦略があった。
3. 新規事業を創出する自社技術の棚卸研究開発部門では,競争力の源泉となるコア技術と基盤技術を抽出し,独自の強みを持つ技術に基づく製品・事業については市場性が当面厳しい分野であっても守り育てる方針を貫いた。その結果,多くの新規事業の創出につながった。既存技術と既存市場の組み合わせからは,X線フィルムやデジタルX線画像診断装置,インスタントカメラ「チェキ」が生まれた。既存技術と新規市場の組み合わせからは,液晶用フィルム,携帯電話用プラスチックレンズ等が生まれた。新規技術と既存市場の組み合わせからは,レーザー内視鏡,医療用画像情報ネットワークシステム等が生まれた。新規技術と新規市場の組み合わせからは,医薬品や化粧品・サプリメントが生まれた。
4. 先進研究所の開設と「タッチゾーンプロジェクト」の展開新事業・新商品の基盤となるコア技術の研究を行うため,先進研究所を2006年に開設した。そこには国内の各地に点在していた要素技術の研究所が同居することになったため,ワークプレイスのコンセプトづくりについての議論が,若手中堅メンバーによるプロジェクトチームで重ねられた。先進研究所が目指したのは,古森社長(当時)が掲げたスローガン「融知・創新による新たな価値の創生」を実践する場である(Komori, 2013)。すなわち,異なる技術や文化を持つ技術者が融合することにより,新しいイノベーションを創生する場である。そのために最も必要とされたのが,技術者の働き方の変革であった。従来は比較的明確な目標の下で技術を極めることに専念していればよかったが,何を目標とするかということも含めて新たな技術と価値を生み出していくことが,先進研究所では求められることになった。そこで,プロジェクトチームは,必要なワークプレイスがどのような場であるべきかについて議論を重ねた結果,場の設計において4つの点を重視することにした(図2)。
先進研究所における場の設計上の重視点とワークショップの手順
働き方の変革については,デザイン思考の導入も試みられた。研究者が自らの技術を他者に伝えるためのカタチをデザイナーとともに作り上げ,そのカタチを介して異分野の人とのコラボレーションを行うワークショップ「タッチゾーンプロジェクト」である。「タッチ」という言葉には,技術に「タッチする(直接手に触れる)」という意味とともに,未来に「バトンタッチ」する意味も込められている。言葉だけでは伝えきれない技術を見える化するワークショップは,図2の手順で進められた。
「タッチゾーンプロジェクト」に取り組んだデザイナーは,デザインセンター内のソリューショングループの一員であるが,先進研究所に常駐して若い研究開発者とともに,「タッチゾーンプロジェクト」の中心的活動であるワークショップの定期的な開催・運営にあたった。特にファシリテーターとしてワークショップをリードするのが,デザイナーの重要な役割であった。こうした経験は,異分野の人同士が対話を始め,新たな気づきを得るための共通言語としての役割を,プロトタイプが果たすという発見につながった。わかりやすい説明ではなく,端的で「美しい」という感性を震わせる驚き,直感を覚醒させる「技術アート」の重要性への気づきをもたらしたのである。
プロトタイプの展示は,まず先進研究所内での常設展示というかたちで始められた。次に年次研究発表会においても展示されることにより,社内の異分野の人同士でコミュニケーションが活発に行われるようになった。社内において一定の成果が得られたため,展示の場を社外へ求めることになった。2007年から2011年にかけて,「東京デザイナーズウイーク 100%design tokyo」の展示ブースに,デザインセンターが出展を試みた。2010年からは,「ナノテクノロジー展」や「高機能フィルム展」に,研究開発部門が出展した。こちらについては,技術アートでなく研究テーマの出口を示したプロトタイプと説明パネルによる技術の解説というかたちをとった。研究開発部門が想定した出口の検証とともに,これまで接点のなかった異分野の人から新たな視点や示唆が得られるという成果があった。こうして,「タッチゾーンプロジェクト」の手法,特にプロトタイプは社内にとどまらず社外の法人顧客に対しても有効であるという確信が深まっていった。
5. Open Innovation Hubの開設顧客の声から潜在ニーズを問い,社会課題と自分たちの研究テーマをビジネスにつなげるために,自社のコア技術をわかりやすく共通言語で伝えることによって法人顧客との共創を進める場が,創立80周年にあたる2014年1月20日,東京ミッドタウンの本社2階に開設された。Open Innovation Hubである。それは3つのエリアと2つのゾーン(図3)から構成され,「タッチゾーン」に展示されている技術は約50点にのぼる。
Open Innovation Hubの構成
出典:富士フイルム(株) FUJIFILM Open Innovation Hub HPに基づき筆者作成
富士フイルムグループ社員の紹介による完全予約制で,来訪者の多くを法人顧客が占める。富士フイルムの全体像を技術の視点からワンストップで体験するツアーとディスカッションを通じ,対等な関係による共創のきっかけづくりを進めている(Ozaki, 2018)。カスタマージャーニーを意識した設計とホスピタリティによる運営が,Open Innovation Hubの特徴である。
東京に続いて,2015年に米国(シリコンバレー)に,2016年にはEU(オランダ)にも拠点が開設された。各拠点はコンセプトを共有しながら,それぞれの市場環境や地域特性に合わせた展示・運営を行っている。
Open Innovation Hubについては,「タッチゾーン」を社外とのコラボレーションを実現する場と位置づけ,技術の本質を表したプロトタイプを,先進研究所の常設展示に倣って展示した。そこには,異分野の研究者やマーケッターが対話を始めることによって,新たな気づきを得るという手法をさらに進化させる意図があった。
コア技術に詳しい研究開発者へのヒアリングをデザイナーが繰り返し,その本質と応用が抽出された体験を通じて直感的に理解できる展示とした。その際に来訪者の考える価値と技術のギャップを埋めるものとして「機能価値」を設定した。「機能価値」は,コア技術が製品サービスを通じて提供できる価値と定義され,光を制御する,物質を制御する,画を撮る,情報を共有する等,動詞形で表現される。これらは自社の強みであるコア技術に基づく製品・サービスが社会に提供する価値を翻訳したものであり,課題解決の潜在的な可能性を来訪者に気づかせる役割を果たす。「機能価値」の設定は,自社の強みが既存の事業あるいは市場以外の課題解決に貢献する可能性を富士フイルムにもたらした。
専門分野の違いをこえて自社の強みを伝えることができる共通言語が,共創につながる対話の基盤として必要であり,オープンイノベーションにおいて不可欠なものであるという確信が深まりつつある。
Open Innovation Hubオープン当初のターゲットは,技術に詳しいCTO(最高技術責任者)であった。現在はCTOにとどまらず幅広い経営層,さらに研究開発の担当者,新規ビジネスを考えている担当者にまで広がっている。開設以来7年間で4,000社近い法人顧客がOpen Innovation Hubを来訪した。そのうち次のステップに進むことができたのは,全体の15%程度である。来訪者の課題に対応可能な自社技術が不足している,そもそも来訪者との接点が見出せない等の理由が挙げられるが,来訪者の持っている強みをなかなか引き出すことができないことが理由として多いこともわかってきた。共創が進むには互いの強みや弱みを客観的に理解し合うことが重要であることを実感し,ワークショップを通じて相互理解を深めることを始めている。今後は,技術からでなく課題からの発想に基づいて共創を進めていく意識を高めるようにしている。
コロナ禍により,リアルな来訪が困難になったため,オンラインでのツアーも開始した。Open Innovation Hubの北米拠点は,ロックダウンに対応していち早くオンラインに切り替えた。日本においてもオンラインへの切り替えが試みられたが,情報の解像度やホスピタリティの点でオンラインとリアルの差異に伴う課題が明らかになった。現在は,北米拠点の先行的な取り組みを参考にしつつ,オンラインに適したやり方を工夫している。電話によるビジネス活動がある程度定着している米国はともかく,日本のように対面を重視するビジネス社会においては,オンラインとリアルの使い分けが容易なことではない。それぞれのビジネス社会に応じた取り組みが求められている。
本稿は,「第二の創業」に取り組んできた富士フイルムがOpen Innovation Hubを開設するにいたるまでの試行錯誤を通じて,自社社員から社外の法人顧客まで巻き込む相互作用の基盤を整えるために,社内外における共通言語づくりをどのように進めてきたかについて明らかにする試みである。
先進研究所の開設に始まり,「タッチゾーンプロジェクト」を経て,Open Innovation Hubの開設にいたる試行錯誤は,自社社員の間,さらに社外の法人顧客との間において,バウンダリー・オブジェクト(boundary object)を生み出し進化させていくプロセスとみることができる。Star and Griesemer(1989)は,博物館の運営において,専門家とアマチュアの協働が可能である理由を説明するために,バウンダリー・オブジェクトの概念を提示した。それは,複数の世界をつなぎ,それぞれの世界から必要とされる情報を与える存在で,個別の解釈を許容する柔軟性を持つ一方で,複数の異なる解釈の間で一貫性を保つ。博物館の場合,標本,フィールドノート,展示品等が,学芸員とコレクター等のアマチュアの間で,その役割を果たしているとされる(Star & Griesemer, 1989)。バウンダリー・オブジェクトについては,異なる視点を持った主体の間で解釈を収束させる側面と,異なる視点を結合して新しい解釈を生み出す側面があるとされる(Fujimura, 1992)。先進研究所が目指したのは,異なる文化,異なる技術を持った技術者をつなぎ,彼らが互いに必要とする技術情報を与える場であり,その技術情報については個別の解釈を許容する一方で,「融知・創新」のコンセプトを一貫して追求する場である。「タッチゾーンプロジェクト」は,異分野の自社社員が互いに新しい気づきを得る対話のための共通言語として,自らの専門分野の情報を他者に伝えるカタチをデザイナーとともに作り上げるプロトタイプが重要であることを見いだしたが,解釈の収束と創出というバウンダリー・オブジェクトの持つ2つの側面(Fujimura, 1992)を物語るものにほかならない。そして,共通言語としてのプロトタイプに基づく対話が,社外の法人顧客についても有効であるという気づきに基づいて,彼らと富士フイルムをつなぎ,互いに必要とする技術情報を与える持続可能な場となっているのが,Open Innovation Hubなのである。
バウンダリー・オブジェクトを生み出し進化させていくプロセスについては,ヘルスケア事業への参入を早くから牽引した戸田執行役員(当時)の存在を抜きに語ることができない。その存在は,バウンダリー・スパナー(boundary spanner)とみることができる。バウンダリー・スパナーは,組織の周縁や境界で活動し,組織の内と外をつなぐ存在である(Leifer & Delbecq, 1978)。Clark and Fujimoto(1991)は,製品開発において成功の鍵を握るのが重量級マネージャーであるとするが,それは,組織内の関連部門を調整する内的統合とともに,市場のニーズに応じた動きを組織に促す外的統合を推進していく存在であって,バウンダリー・スパナーと考えられるものである。ヘルスケア事業への参入は,事業転換の第1歩を踏み出すものであるとともに,一般消費者と接点を持つブランドの育成という意味もあった点において,外的統合を推進した戸田執行役員(当時)の役割をみることができる。また,化粧品事業への進出という大きな事業戦略を描く一方で,コラーゲンの知見が活かせるスキンケア化粧品という確実性の高い市場への参入から始めるという,経営層の共感を得やすい提案を心がけた点に,内的統合をおろそかにしない戸田執行役員(当時)の目配りがうかがわれる。このようなバウンダリー・スパナーがヘルスケア事業への参入において先行的な動き方を見せたことが,富士フイルムにおいて,先進研究所,「タッチゾーンプロジェクト」,そしてOpen Innovation Hubと連なるバウンダリー・オブジェクトの誕生と進化のプロセスに少なからず影響を与えたことは,想像に難くない。
Open Innovation Hubは,共通言語としてのプロトタイプに基づく社外の法人顧客との対話を持続可能にするものであるが,それに伴って社内外で発生する相互作用は,ほぼオフラインで行われてきた。近年のコロナ禍に見舞われて,これまで築き上げてきたワークウェイに行き詰まりが感じられたに違いない。ところが,もともと文脈依存性の低いビジネス文化を持つ北米拠点では,オンラインによる相互作用が行われていた。コロナ禍は,日本のOpen Innovation Hubが北米拠点に学ぶ機会を与えた。すなわち,社内外で発生する相互作用のうち文脈依存性の低い相互作用とみられるものを選別し,それについてはオンラインで対応することを学んだのである。この学びは,Open Innovation Hubの活動効率を向上させただけにとどまらず,リアルの対応が文脈依存性の高い相互作用に絞ってできるようになったことにより,活動機会の拡大にもつながっている。
デジタル化の逆風が直撃した本業消失の危機に瀕し,事業転換の必要に迫られて富士フイルムが取り組んだのが,共通言語づくりである。それに基づいて社内外における相互作用を持続可能なものとしている場が,Open Innovation Hubなのである。展開の予断をゆるさないデジタル・トランスフォーメーションと向き合うOpen Innovation Hubの試行錯誤は今後も続くと思われるが,そこから共通言語や相互作用の新しいかたちが生み出されていくことを期待してやまない。
宮脇 靖典(みやわき やすのり)
東京大学法学部卒業。株式会社電通を経て,現在,岡山理科大学大学院マネジメント研究科教授。修士(経営学)。東京都立大学大学院経営学研究科博士後期課程に在籍。一般社団法人岡山経済同友会会員。
小島 健嗣(こじま けんじ)
千葉大学工学部工業意匠学科卒業。富士フイルム株式会社デザインセンター,技術戦略部,イノベーション戦略企画部,ビジネス開発・創出部を経て現在design MeME合同会社代表社員。前FUJIFILM Open Innovation Hub館長。