2005 年 30 巻 p. 13-22
本稿の目的は,1990年10月3日のドイツ統一後に,クリングベルク教授学がどのように展開したのかを明らかにすることである。ドイツ統一後のクリングベルクの論文を検討すると,次の三つの点で論が展開していることがわかる。第一点目として,東西ドイツの教授学状況の地図を描くことを課題として取り組んだクリングペルクは,東西ドイツの教授学は完全に違う方向へと展開していったのではなく,いくつかの点で類似していると主張したことが挙げられる。その上で彼は,旧東ドイツが政治的な観点のもとだけで評価されてしまう危険性を指摘するのである。第二点目として,一般教授学と教科教授学との関係について,教科教授学の位置をより確かなものとすることを強調しながら,両者の関係を統一的に捉えようとしたことが挙げられる。そこでは,彼の教授学のコミュニケーション論的な側面と,教科教授学を強調しながらも一般教授学を強調する側面とが明白に現れている。第三点目として,ヘルバルトとディースターヴェークを援用しながら,「指導と自己活動」というテーマに関して,自らの論を深めるかたちで展開していることが挙げられる。東西ドイツの教授学は,その出自は同じドイツに伝統的な教授学であり,クリングペルク自身も,自らの教授学をその伝統的な教授学理解の中に据えながら,自らの論を展開している。