近世大坂には諸藩の蔵屋敷が置かれていた。それらは江戸の大名屋敷とは異なって、各藩の必要性に応じて設置されるものであり、個別の事情に応じて、設置・廃止、あるいは移転するものであったことが特長である。幕府領である大坂に諸藩が土地を所有することはできなかった。そのため蔵屋敷、名代という町人名義の屋敷を借りるという形式をとったが、実質は藩が所有しており、売買や質入れなどで所有者が表面化する時には名代を介するという場合があった。また、名目だけではなく、実質の部分でも蔵屋敷を「借りる」という場合もあった。そのような選択肢があることで、蔵屋敷の設置や移動が容易になった側面があり、そのことが幕藩制下における商業・流通都市としての大坂の活性化に大きな意味を持っていたと考えられる。