抄録
ヒトを含む狭鼻猿類はLオプシン、Mオプシン、Sオプシンという3種類の光センサーをもつことによる3色型色覚である。これらのうちLとMオプシン遺伝子は塩基配列類似性が高く(~96%)、隣接してX染色体上に位置する。ヒトにおいてはL、Mオプシン遺伝子間の不等交差によって一方の遺伝子の失欠や両遺伝子のキメラが生じる例が多く報告されており、それらが男性の3~8%に見られるいわゆる色覚異常の主な成因となっている。ヒト以外の狭鼻猿類では色覚異常は例がないか極めて低頻度と報告されているが、L-Mオプシンの遺伝子型を多数の個体に対して調査した例はこれまでマカクとチンパンジーのみであった。そこで我々は色覚の知見がこれまでになく、多様な生態を示すテナガザルを対象としてL-Mオプシンの遺伝子型解析を行うことにした。テナガザルにはHylobates pileatusやSymphalangus syndactylusのように雌雄間で著しく体色が異なる種や、H. larのように体色の個体変異が大きい種があり、食性も果実食を主としながらS. syndactylusのように葉食を好む種など多様性に富む。我々はテナガザル3属8種(H. lar、H. agilis、H. muelleri、H. klossii、H. moloch、H. pileatus、S. syndactylus、Nomascus leucogenys)168個体分の血液サンプルを、タイ、インドネシア、マレーシアの動物園あるいはペットより収集し、PCRと塩基配列決定によるL-Mオプシン遺伝子型判定を行った。これらにL-Mオプシン遺伝子の欠失やキメラは存在せず、テナガザルもマカクやチンパンジーと同様に色覚異常の頻度は極めて低いことが示唆された。これらのことから、生態学的な多様性に関わらず、ヒト以外の狭鼻猿類には3色型色覚を維持する強力な淘汰圧が働いていると考えられる。