抄録
苦味感覚は採食品目に含まれる生理活性物質や毒性物質を検知する役割をもつ。そのため、苦味受容体遺伝子TAS2Rは、動物の採食行動や代謝能力と関係して進化した可能性がある。我々は、野生集団におけるTAS2Rの多様性および集団間における差異を調べることを目的として、12地域由来のニホンザル409個体において、TAS2Rの一種、TAS2R38 (柑橘類に含まれる苦味物質リモニンなどの受容体遺伝子) の多型解析を行った。その結果、紀伊半島の集団だけにTAS2R38遺伝子変異による苦味感受性変異が起きていることを発見した (Suzuki <et al. 2010)。この変異をもつハプロタイプは集団中に約3割の頻度で存在した。遺伝子周辺領域を解析することにより、この変異が集団中に拡がるのに要した時間を推定し、この変異が中立的であったと仮定した場合に要した時間と比較した。その結果から、偶然生じたこの変異が集団中に拡がる過程において、自然選択の影響があったかどうかを明らかにすることを本研究の目的とした。
紀伊集団ニホンザル40個体において、TAS2R38遺伝子周辺領域10kbp (上流、下流5kbpずつ) における遺伝子多型を決定した。その結果、感受性変異を引き起こすハプロタイプ (80アリル中23アリル) はすべて同一の配列を示し、ハプロタイプ内で塩基多型は存在しなかった。このことから、この変異が生じてから集団中に拡がるのに要した時間は多く見積もっても1-2千年程度と推定された。この結果を中立的であった場合に要した時間と比較する。そして、この変異が集団中に拡がった背景について、ニホンザルの柑橘類に対する採食行動、生息環境中の植生変化などの視点から考察する。