抄録
ヒトは身体的・心理的に脅威を感じると交感神経が活性化し、闘争や逃走反応に備える。血中に放出されたエピネフリンは皮下の血管を収縮させて血流を抑えることで、傷害時の出血リスクを低下させる。ヒト以外の霊長類においても同様の機序が検討されており、皮膚表面の血流が制限されることで、鼻の皮膚温度が低下することが知られている。本研究ではニホンザルに対して大豆の投与実験を行った。厳格な優劣関係を持つニホンザルは、優位個体が劣位個体を一方的に攻撃して食物を奪うことがある。大豆を投与した際に、攻撃を受けるリスクが高い劣位個体において、鼻の皮膚温度が低下すると予測した。淡路島餌付けニホンザル集団の成体を対象に、2023年8月から12月にかけて実験を行った。赤外線サーモグラフィカメラを用いて、対象個体を10分間追跡観察して、鼻の表面温度を複数回測定した。観察終了後に、対象個体と周囲の個体の間に大豆を一粒投げ、対象個体の優劣順序を評価する刺激提示場面を設定した。大豆投与直後から同じ個体を引き続き3‐10分間追跡観察をして、鼻の温度測定を複数回行った。対象個体が劣位であった場面は27セッション、優位であった場面は11セッションあった。対象個体が劣位であった場合、鼻の表面温度の平均値は刺激提示前の33.7℃から刺激提示後の32.6℃に有意に低下した(N=27, p<0.001)。一方で、対象個体が優位であった場合、刺激提示前と提示後の温度の間に有意な変化は検出できなかった(N=11, p=0.123)。本研究から、ニホンザルの社会交渉におけるストレスを、赤外線サーモグラフィカメラを用いた鼻の表面温度の測定から検出できる可能性が示された。淡路島のニホンザルは、食物をめぐる敵対的交渉が生じにくいことが知られているが、それでも、大豆を提示された劣位個体には社会的なストレスが生じていることが示唆された。