抄録
長野県山ノ内町の地獄谷野猿公苑周辺に生息している地獄谷群のニホンザルは,公苑内にある温泉に入浴することが知られている。この行動は1962年に初めて記録されて以来,現在まで同群で継続してみられ,ニホンザルの文化的行動の一つであるとされる。しかし入浴行動に関する研究は少なく,行動の創出から63年が経った現在でも,気温と入浴行動の関連といった基礎的なデータすら十分とは言えない。また,温泉資源をめぐる競争が示唆されているものの,順位と入浴との関係についても明確にはなっていない。そこで本研究では,どのような個体がいつ温泉を利用し,温泉内で何をしているか明らかにする。調査は2024年7月から11月にかけて行った。地獄谷群の全200頭ほどのうち59頭を識別し,識別個体の入浴回数・入浴時間・入浴開始直後の行動を,定点ビデオカメラで記録した。全入浴行動のうち,84.3%は40頭の識別個体によるものであった。入浴個体のほとんどは上位3家系に属していたが,同時に低順位個体が入浴する様子も観察された。入浴個体数は冬季に多く,先行研究の結果に一致した。さらに,夏にも冬にも入浴した個体では冬季の入浴回数が多く,入浴時間も長かった。また,冬季の10分ごとの温泉入浴個体数と気温には負の相関があった。つまり,地獄谷のニホンザルが気温の低下に応じて入浴行動を増加させている可能性が示唆された。また,夏季の入浴では入浴開始直後に採食をすることがほとんどであった一方で,冬季は採食の他,休息・毛づくろい・自己毛づくろいをする割合が大きかった。入浴中の毛づくろいや自己毛づくろいの増加は,冬季に温泉内の個体密度が高まることに伴う緊張を緩和することと関係しているのかもしれない。