2023 年 60 巻 p. 99-124
本稿は、19世紀後半のイギリス帝国、とりわけインドにおける鉄道建設を検討することで、覇権的平和の単純化された語りに抗することを目的としている。多くの場合、覇権的平和の言説が依拠するのは、圧倒的な経済力や国際制度に与える影響力である。しかしながら、そういったナラティブでは、「平和」の内実は一元化され、消極的な定義に還元される傾向にある。本稿は、「平和」概念の複層性を浮き彫りにするために、断片的でありながらも、鉄道建設という具体的な事例を通して歴史的なヘゲモニーのあり方を、平和学の観点から検討する。本稿では、イギリス帝国下での鉄道建設は、パクス・ブリタニカの名称の通り、まさしく統治者の中では、「平和」の実現を企図したものであったものの、その帰結として招いたのは「人新世(Anthropocene)」への一契機となるような森林伐採であったことを示す。鉄道建設という具体的な実践の検討によって、ヨハン・ガルトゥング(Johan Galtung)が提唱した「構造的暴力」論を2つの方向で分析的に乗り越えることが必要であることを示した。第一に、「流通権力」という概念を導入し、鉄道建設を構造的暴力の構造化過程として位置づけた。第二に、鉄道建設によってもたらされる環境破壊を「緩慢な暴力(slow violence)」として位置づけ、暴力の時間的次元を捉える必要性を論じた。これらのことを通して、新たな視座から平和研究の方向性を展望した。