平和研究
Online ISSN : 2436-1054
60 巻
選択された号の論文の14件中1~14を表示しています
巻頭言
依頼論文
  • 松元 雅和
    2023 年 60 巻 p. 1-24
    発行日: 2023/09/07
    公開日: 2023/09/16
    ジャーナル フリー

    本稿では,政治哲学を規範研究として捉えたうえで,それが平和という主題にどのようにアプローチしうるかを検討する。政治哲学,とりわけ正義論は,世界内の「である」の側面について考察する実証研究とは異なり,世界内の「べき」について考える規範研究である。その課題に取り組む際のアプローチは理想理論と非理想理論の2つの下位領域に区別することができるが,国際社会においては無政府状態や強制力の不在という構造的条件から,非理想状態に対処するための非理想理論が主要な問いとなる。こうした理論の一例として正戦論がある。ただし,正戦論の内部にも,規範研究が掲げる理想化の水準をめぐり,ユートピア主義と現実主義のあいだで論争が生じている。政治哲学には,非現実的ユートピアをあえて掲げる側面が含まれるが,こうした側面の延長線上に位置づけられる平和研究のありうるアジェンダとして、機会費用の平和主義,戦争廃絶の正義,世界統合論に注目することができる。

  • 古澤 嘉朗
    2023 年 60 巻 p. 25-45
    発行日: 2023/09/07
    公開日: 2023/09/16
    ジャーナル フリー

    本論文では、自明視されがちな平和構築と平和学の関係について考察する。第1節では、平和構築に関する先行研究を紐解きながら、国家建設が平和構築の唯一無二のアプローチになってしまったという指摘が意味することについて考える。第2節では、平和学から派生した紛争解決論という原点を意識することが平和構築という政策にとって何を意味するのかを念頭に、紛争解決論と平和学、平和構築の関係について整理する。第3節では、日常的平和という概念に着目し、「紛争解決論の原点」を意識することが平和構築に何をもたらすのかについて考察する。平和学と親和性の高い日常的平和の議論にみられるように、見過ごされがちなヒトとその潜在力に焦点をあてたミクロな視点に目を向ける研究が近年台頭しつつあり、平和構築へのアプローチも多様であることがみえてくる。

  • 土野 瑞穂
    2023 年 60 巻 p. 47-71
    発行日: 2023/09/07
    公開日: 2023/09/16
    ジャーナル フリー

    今日に至るまで様々な視角から数多くの紛争下における女性への性暴力に関する研究が進められてきた。本稿の目的は、それらの研究が抱える問題点を指摘してきた先行研究をレビューし、紛争下の女性への性暴力研究を再検討することである。

    先行研究が指摘してきた点として本稿で検討したのは次の4つである。すなわち一つ目に、性暴力の様々な要因を明確にすることなしに「戦争の武器」としてレイプを論じ、女性の保護を謳うことは、女性を「保護される存在」とするがゆえに攻撃対象としての価値を生み出すジェンダーの再生産・強化をもたらす危険があることである。二つ目に、紛争下における女性への性暴力が第三世界の「野蛮さ」を象徴するものとして表象されている点である。三つ目に、紛争下における女性への性暴力の複合的要因を無視し、その要因を「ジェンダー」だけに求めることは、性暴力を「自然化」させてしまう危険があることである。そして四つ目に、「紛争下の性暴力」の被害者の中でも女性被害者に関心を集中させることは、「女性=被害者」「男性=加害者」という二項対立の図式を固定化し、男性の被害者を不可視化させる点である。

    こうした問題を回避するための方法として、本稿で取り上げた先行研究が示唆しているのは、サバイバーを取り巻くローカルなジェンダーやセクシュアリティ、人種、民族、宗教、グローバルな経済構造をめぐる権力関係の分析と、そしてこの問題に向き合う者とサバイバーとの間にある権力関係に対する意識化である。

自由投稿論文(研究論文)
  • 梅原 季哉
    2023 年 60 巻 p. 73-97
    発行日: 2023/09/07
    公開日: 2023/09/13
    ジャーナル フリー

    本論文では広島・長崎の「原爆の日」に開かれる式典で毎年、両市長が読み上げる「平和宣言」と、同じ式典の場に列席する歴代首相が発出する挨拶文(首相挨拶)について、計量テキスト分析の手法を用いて、核兵器に対する何らかの忌避感に根ざした規範群(非核規範)との関係性がどのように異なるかを分析した。具体的には、学術用テキストマイニングのフリーソフトKH Coderを使い、用語や表現のパターンを論理演算式で記述し指定した「コーディングルール」に照らして、核兵器不使用規範や核不拡散規範といった異なる規範の存在をコード化した形で検出した。そうした各コード群の出現傾向について、当該言説が平和宣言であるか首相挨拶かどうかの別などを外部変数とするχ2検定を施した結果、核兵器不使用規範の受容を示唆する核使用への否定的な文脈での言及と、核兵器禁止を提唱する言説という2点については、冷戦後に関してみると首相挨拶よりも平和宣言の方に強い有意差をもって表出することが確認できた。また冷戦後の平和宣言だけを比較すると、広島と長崎という被爆都市間での差や、各市長の政治的属性による違いに関わらず、非核規範への言及傾向にはほとんど有意差が認められなかった。同時期の首相挨拶についても、自民党政権の首相か非自民党の首相かによって非核規範への言及傾向には統計的な有意差が認められず、極めて均質性の高い傾向がうかがえた。

  • 深谷 舜
    2023 年 60 巻 p. 99-124
    発行日: 2023/09/05
    公開日: 2023/09/13
    ジャーナル フリー

    本稿は、19世紀後半のイギリス帝国、とりわけインドにおける鉄道建設を検討することで、覇権的平和の単純化された語りに抗することを目的としている。多くの場合、覇権的平和の言説が依拠するのは、圧倒的な経済力や国際制度に与える影響力である。しかしながら、そういったナラティブでは、「平和」の内実は一元化され、消極的な定義に還元される傾向にある。本稿は、「平和」概念の複層性を浮き彫りにするために、断片的でありながらも、鉄道建設という具体的な事例を通して歴史的なヘゲモニーのあり方を、平和学の観点から検討する。本稿では、イギリス帝国下での鉄道建設は、パクス・ブリタニカの名称の通り、まさしく統治者の中では、「平和」の実現を企図したものであったものの、その帰結として招いたのは「人新世(Anthropocene)」への一契機となるような森林伐採であったことを示す。鉄道建設という具体的な実践の検討によって、ヨハン・ガルトゥング(Johan Galtung)が提唱した「構造的暴力」論を2つの方向で分析的に乗り越えることが必要であることを示した。第一に、「流通権力」という概念を導入し、鉄道建設を構造的暴力の構造化過程として位置づけた。第二に、鉄道建設によってもたらされる環境破壊を「緩慢な暴力(slow violence)」として位置づけ、暴力の時間的次元を捉える必要性を論じた。これらのことを通して、新たな視座から平和研究の方向性を展望した。

  • 尾立 素子
    2023 年 60 巻 p. 125-150
    発行日: 2023/09/05
    公開日: 2023/09/13
    ジャーナル フリー

    人道開発支援者による支援対象者に対する性的搾取・虐待(Sexual Exploitation and Abuse :SEA)は、2002年に国連職員を含めた支援者による多数の西アフリカの児童のSEA被害が報道されたことをきっかけとして、国際的な対策が進められてきた。国連事務総長告示(2003年)では、性的搾取・虐待からの保護(Protection from Sexual Exploitation and Abuse(PSEA))に関する特別な措置について明記され、SEA対策が強化された。しかしながら、現在もSEA問題は解決しておらず、PSEAは形骸化している。本稿の目的は、2002年から20年以上もPSEAが実施されているにもかかわらず、なぜ人道開発支援者によるSEAの加害が絶えないのか、その構造的な要因を、文献調査および筆者による支援関係者および受益者へのインタビュー調査結果の分析によって、検討することであった。本稿での分析を経て明らかになったことは、SEAの被害者および被害に遭うリスクの高い被援助国の女性・子どもなど当事者の意思が十分に尊重されないまま、むしろ、支援団体の組織としての名声の維持のためにPSEAが行われてきた状況が確認された。今後、PSEAが形骸化せずに、SEAを予防し、SEA被害者/サバイバーの回復を支えるという、本来的な機能をはたしていくためには、人道開発支援団体が、パターナリスティックな性質から脱却し、パターナリズムと関連する独善性・男尊女卑・人種差別といった問題を克服することが必要である。

  • 島本 奈央
    2023 年 60 巻 p. 151-176
    発行日: 2023/09/07
    公開日: 2023/09/13
    ジャーナル フリー

    今日の国際法において集団的権利が認められているのは自決権の行使主体である人民だけだとされてきた。マイノリティは、マイノリティとしての個人の権利はあるものの、集団的権利は認められているかは未だ不明瞭である。こうした現状において、本論文はマイノリティの集団的権利という概念の再考が喫緊に必要であると考える。本論文はその問題意識を出発点とする。

    1945年以降、国際法は主に個人の人権のみに焦点を当ててきた。しかし近年、集団的権利の概念に、より多くの注目が集まっている。但し集団的権利を行使できる主体は、自決権行使主体である「人民」に限定されている一方で、マイノリティは自由権規約27条上の個人の権利しか認められておらず、例えば文化享有権や言語使用権といった権利保障に留まっている。しかしマイノリティにも他の集団的権利である、例えば効果的参加権や自治権といった集団的権利の認められる余地はないのだろうか。なぜなら、マイノリティは集団としてそのアイデンティティを保持する手段と資源を持たなければ、マイノリティの声が意思決定に正確に反映されないという現状を踏まえて考える必要があるからである。

    しかし、果たして自決権行使主体である「人民」とマイノリティの権利は、集団的権利と個人の権利として明確に二分されているといえるのかとの問いが挙げられる。つまり実体上、両者は交錯しており、法的にも両者は接近しているのではないだろうか。 本稿では、異なる制度として設計されてきた自決権制度とマイノリティの権利制度の関係性のとらえ方に近年変化が生じてきたことを捉え、具体例として、自決権の変遷と先住民族の法的主体性を分析することで、マイノリティと人民の接近可能性を論証する。結論として、人民とマイノリティは権利面では明確に区別されているものの、実体として、その境目は曖昧である為、両者は法的に接近している事を述べる。人民とマイノリティが接近している部分に関しては、マイノリティにも集団的権利、例えば効果的参加権や自治権が国際法上認められる可能性が示唆される。

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