今日の国際法において集団的権利が認められているのは自決権の行使主体である人民だけだとされてきた。マイノリティは、マイノリティとしての個人の権利はあるものの、集団的権利は認められているかは未だ不明瞭である。こうした現状において、本論文はマイノリティの集団的権利という概念の再考が喫緊に必要であると考える。本論文はその問題意識を出発点とする。
1945年以降、国際法は主に個人の人権のみに焦点を当ててきた。しかし近年、集団的権利の概念に、より多くの注目が集まっている。但し集団的権利を行使できる主体は、自決権行使主体である「人民」に限定されている一方で、マイノリティは自由権規約27条上の個人の権利しか認められておらず、例えば文化享有権や言語使用権といった権利保障に留まっている。しかしマイノリティにも他の集団的権利である、例えば効果的参加権や自治権といった集団的権利の認められる余地はないのだろうか。なぜなら、マイノリティは集団としてそのアイデンティティを保持する手段と資源を持たなければ、マイノリティの声が意思決定に正確に反映されないという現状を踏まえて考える必要があるからである。
しかし、果たして自決権行使主体である「人民」とマイノリティの権利は、集団的権利と個人の権利として明確に二分されているといえるのかとの問いが挙げられる。つまり実体上、両者は交錯しており、法的にも両者は接近しているのではないだろうか。
本稿では、異なる制度として設計されてきた自決権制度とマイノリティの権利制度の関係性のとらえ方に近年変化が生じてきたことを捉え、具体例として、自決権の変遷と先住民族の法的主体性を分析することで、マイノリティと人民の接近可能性を論証する。結論として、人民とマイノリティは権利面では明確に区別されているものの、実体として、その境目は曖昧である為、両者は法的に接近している事を述べる。人民とマイノリティが接近している部分に関しては、マイノリティにも集団的権利、例えば効果的参加権や自治権が国際法上認められる可能性が示唆される。
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