抄録
事相・教相を両親とする空海教学が、日本的な環境のなかで、いかに歴史的に変遷してきたかを考察することが、本稿の目的である。空海が深く関わった東寺・金剛峯寺では、空海教学を体現する寺院として修学システムが整備されていくが、九世紀後半より建立された真言系の定額寺・御願寺では、顕教の影響を強く受け、学解重視の傾向が強い。しかし、一〇世紀後半の国家・社会の変化を背景に、真言系の定額寺・御願寺は、事相法流の拠点寺院となり、修法を重視することで発展する一方、東寺・金剛峯寺は衰退し、教相活動は停滞する。院政期には、顕教・密教の広範な交流のもと、仏教界全体が発展するが、真言宗の中心的な位置にあった仁和寺では、教相復興の気運が起こる。しかし、事相活動を重視する仁和寺は教相研究の拠点寺院にはなり得ず、教相活動は金剛峯寺で展開し、鎌倉後期に、金剛峯寺は教相研究の拠点寺院としての性格を明確にする。金剛峯寺での教学・法会のあり方が、東寺に移植され、東寺の教学復興も図られる。
平安後期以降、真言教相研究が復興・進展し、鎌倉後期には、真言教学は新たな段階を迎える。そのさい、教学研究方法として採用されたのが、談義・論義に基づく顕教的な修学システムであった点は重要である。学侶が顕教的な方法で研鑽を積むことで、彼ら共通の宗教的基盤が形成され、それが寺院構造に与えた影響も大きく、鎌倉後期以降、金剛峯寺・東寺は、南都権門寺院と類似の構造を持つようになる。
顕教も密教の影響を受けるとともに、密教も顕教の影響を受け、両者はその独自性を保持しつつも、均質なあり方を示すことになる。これが、日本における真言密教の変遷であり、顕密仏教の展開であったと考える。