抄録
景宗元年辛丑(一七二一)、老論は王世弟(後の英祖)による代理聴政策を主導したが、少論はこれに強く反発、結局代理聴政策は完全な失敗に終わり、老論は失脚した。代わって政権を取った少論は老論に対する攻撃を強め、翌二年壬寅(一七二二)には老論四大臣の処刑をはじめとする大規模な粛正を断行した(壬寅獄、辛壬士禍)。そしてこの過程で少論は、峻少(金一鏡、朴弼夢、李真儒等)と緩少(李光佐、趙泰耇、尹淳、徐命均等)に分派した。分派の背景や要因についての詳細な研究は、これまでほとんど存在しなかった。本稿では、緩少の側から見た両派の主たる対立点を以下の五点に整理した。①金一鏡のひととなりに対する反発・嫌悪感。②南人を利用して老論攻撃の矢面に立たせようとする峻少派の政治手法に対する反発。③景宗生母張氏問題をめぐる政治姿勢の相違。④金一鏡撰「討逆頒教文」をめぐる対立。⑤老論処分に際しての峻厳・寛容の立場の相違。