本稿では、総ドイツ・セシリア協会の創立者F・X・ヴィットの教会音楽論、特にウィーン古典派三巨匠のミサ曲に対する評価に注目し、彼の考える「教会的」「非教会的」というものの意味を検討する。彼はハイドンとモーツァルトのミサ曲が持つ通俗性を「非教会的」とし、単純な形式のミサ曲が持つ「崇高なもの」を「教会的」なものの重要な要素とした。しかしベートーヴェンのミサ曲に対しては、これとは異なった見方がなされている。彼はこの作曲家のミサ曲の「非教会的」な面を指摘しつつも、そこに宗教的な崇高さを見ていた。この作曲家の《ミサ・ソレムニス》は「未来のミサ曲」であり、「一つの普遍的教会へとまとめられた人類による賛歌」である。彼は現実の個々の教会を超越した「カトリック(普遍)教会」のためのミサ曲という意味で、この楽曲が「教会の概念」や「礼拝の範囲」を超え出ていると考えていたのではないか。彼はしばしば“伝統崇拝者”と言われるが、実際は礼拝や教会音楽のあり方について「未来」も見据えながら模索していたのである。