本論文は、キルケゴール『おそれとおののき』に対する現代宗教哲学における諸解釈を参照し、信仰と悪の内的関係について考察する。キルケゴールは「倫理的なものの目的論的停止」という概念のもと、信仰が倫理を破棄する可能性を示唆した。ブーバーやレヴィナスは、その概念の無効化を図り、信仰と倫理が一致する道を模索した。他方デリダは、他者への倫理的関係のためには、別の他者との倫理的関係を犠牲にせざるをえないとする解釈を提示した。この解釈は有意義である一方、他者関係が平板化してしまう難点がある。これに対しデ=ヴリースは、キルケゴールが神的なものと並ぶ悪魔的なものを語る点に注目し、デリダのいう他者のうちに、それとは他なる倫理的ではない面を追加する。この解釈に従うならば、信仰(あるいは信一般)は倫理的であろうとすると同時に非倫理とも接点をもちうることになる。