2008 年 8 巻 1 号 p. 51-69
この論文では、4人の学者の宗教体験に関する理論を検討し、 現代社会における異教やホリスティック運動(ニューエイジ)、カ ルチュアルクリエイティブズ(ロハス)などの社会運動の原動力 となる、脆弱(柔)ではない超越力の可能性について示す。この 検討により、社会学の創設者を含む臣人が、近代主義的日常性の 彼方の客観的実在というトランスパーソナルな心理を、経済交換 (贈与と対抗贈与)を規制する法、道徳などの社会制度や秩序の基 盤とみなしていたことを明確化する。デュルケムの集合意識と、 ヴェーバーのカリスマ概念は共に非日常性をもつ。カリスマはグ ルの特権であり支配を生むが、集合的エネルギーであるマナは伝 播し万人に広く分有され、人格に(崇拝に向けた)聖なる抽象的 価値を加え重置する。集合的エネルギーは化身し、人間をそれ以 上に高める。ルーマンによれば、そうした超越性はいずれも分化 した近現代社会においては周辺システム化してしまう。ハバーマ スのように共同意識の妥当性を再生させるためにコミュニケー ション(討議・合意)に期待する立場もある。だが、ルーマンに よれば言論による基礎付けは更なる機能分化、不確実性に帰結す る。コミュニケーション自体が独自に定位する。では、表出・解 釈に依存せずいかに共同性は可能か。ルーマンは、独善的に相手 を裁断しない態度と、専門家主導の概念を通さない各自の直接体 験が重要であるとする。デュルケムとユングにあっては、分化の 極致にある冷めた表層が、かえって万人の深層の統合、未分化の 胚、無意識の最深層の自然を想起させ、それへの郷愁を呼び起こ す。現代の、エゴイズムという自殺をもたらす苦痛(表層的分 化・喪)の果てに、ただ方向性なく浮動する未定形の力(ユング におけるヌーメン)は、深淵を渡り目的性をもって密度を付け結 晶化(体化)し、自身の可感的実体的現実性を顕にし、聖俗の二 分法、集合的概念(理性と科学)や安定した原型を強制性をもっ て啓示し産出する。流れ込む力は、個人の象徴解釈に対する優位 性をもつ。これは、第5元素の外在的(具体的人間に内在しない) プラズマ、異界の豊穣な生命をもったエネルギーの流入へ浸っ て、人為的に構成された概念や認識形式、イメージや幻想による 介入・屈曲を排しそれを直観することで可能となる。デュルケム にあっては、カントがいうように世界はそれ自体不可避的に不可 知ではない。デュルケムは、集合力の匿名的、非人格的普遍的性 格に加え、堅固で可感的な性質を重視する。彼は、反神秘主義者 として知られているが、ケテルとマルクトの関係性を見抜くカバリストのようである。そして彼はまた、激烈な剰余の沸騰におい て、我々はイデアをずれなく直観できると主張する。そこで我々 は、エクスタティックで自らが運び去られる、各自の垣根のない、 自己を圧倒する(クンダリニのように沸きあがる)擬似錯乱を経 験する。この驚異の超越的感覚は我々が予め合理的思考、エゴを 確立していることではじめて生ずる。そして、これは内面からの、 狭間からのsui generisな総合・融合である。ユングとデュルケム は、コミュニオンにおける「無意識の意識化」が物質、形式や象 徴を再活性化・再聖化し、対立物を中継することで星座=連帯= 理想社会を作り上げると確かに予期していた。物質を通した(抽 象力の)崇拝こそ、社会の波や呼吸への鍵である。近代的理性主 義の極北であるルーマンの立場からも、直接的非日常体験の可能 性は否定されない。