綸旨は天皇の意を奉じた文書で、奉書の一種である。奉書は、上級者の意を奉じた側近者が文書として書き記し、側近者の名によって他者に差し出した書状形式の文書である。
八世紀の正倉院文書の中では、天皇・上皇・皇后の命令は口頭で、命令を受けた者が宣し、それを官人などが伝達するという方法が取られている。天皇・上皇・皇后の命令を直接奉じて書かれた文書はほとんどないと言ってよい。また、命令を伝達する文書は必ずしも書状形式ではない。律令制下における天皇の命令伝達については、内侍司が行うことになっているが、弘仁元年(八一〇)に設置された蔵人所が、九世紀末から十世紀初めに組織と機能を拡大すると、奏宣機能は内侍から蔵人へ吸収された。蔵人の奏宣の多くは口頭で行われるが、蔵人が天皇の命令を書状にして伝える例もある。平安中期の実例を日記からみていくと、蔵人が天皇の命令を記した書状は「仰書」と呼ばれ、奉書のものもあること、後世の綸旨にはみられない内容のものがあること、『左経記』の後一条朝になると、奉書としての書止文言がみえるようになることなどが指摘できる。
一方、文書としての綸旨の初見は後一条朝であり、これらのことから、後一条朝に綸旨の書式が成立したと考えられる。八、九世紀における天皇の命令伝達法と比較すると、綸旨の成立によって、天皇の命令は奉者である蔵人自身が書き記すようになり、天皇の命令は仲介者を介さずに、より直接的に伝達されるようになったと言える。その背景には、太政官の縮小と蔵人所の拡大による官方・蔵人方の成立という朝廷の政治機構の家政機関化が存在した。家政機関は院や三位以上の貴族などにも設置されるのであり、家政機関の頂点に位置する主君の意を側近者が奉じて書き記す奉書は、中世には綸旨以外にも院宣や御教書という形式で発達し、下文とともに権門の発給文書としての地位を確立していった。
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