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クエリ検索: "アカディ"
91件中 1-20の結果を表示しています
  • *大石 太郎
    日本地理学会発表要旨集
    2020年 2020s 巻 411
    発行日: 2020年
    公開日: 2020/03/30
    会議録・要旨集 フリー

    Ⅰ はじめに

     国家やエスニック集団の記憶は,そのアイデンティティ形成に重要な役割を果たしており,それらは博物館やイヴェントを通じて強化され,継承される.たとえばカナダでは,実質的な建国記念日であるカナダ・デーを祝うイヴェントが首都オタワの連邦議会議事堂前広場において総督や首相が出席する国家行事として開催され,二言語主義や多文化主義といったカナダの国是に沿った演出がなされてきた(大石 2019).エスニック集団の記憶も,たとえば矢ケ﨑(2018)がアメリカ合衆国におけるさまざまな集団の事例を検討し,移民博物館やエスニック・フェスティヴァルがその記憶と継承に大きな役割を果たしていることを示した.本報告では,カナダ東部の沿海諸州(ノヴァスコシア州,ニューブランズウィック州,プリンスエドワードアイランド州)のフランス系住民

    アカディ
    アンの記憶とその継承を,5年ごとに開催される世界
    アカディ
    アン会議に注目して検討する.報告者は,2014年開催の第5回および2019年開催の第6回世界
    アカディ
    アン会議に参加していくつかのイヴェントを観察するとともに,関連資料を収集した.

    Ⅱ 

    アカディアンと世界アカディ
    アン会議

     

    アカディ
    アンはカナダの沿海諸州に居住するフランス系住民であり,北アメリカに入植した最初のヨーロッパ人であるフランス人入植者の末裔である.18世紀にイギリスの支配下に入って以降,英語への同化が進んでしまったが,フランス語が英語と並ぶ公用語となっているニューブランズウィック州を中心に,現在もフランス語を母語として維持している.そこで一般には,統計的に把握しやすいこともあって,沿海諸州に居住するフランス語を母語とする者を
    アカディ
    アンとみなす場合が多い.ただし,沿海諸州のフランス語話者にはケベック州出身者が一定程度含まれる一方,同化されてしまった家系にも
    アカディ
    アンとしてのアイデンティティを維持する者が存在する.

    アカディ
    アンの先祖であるフランス人入植者は,1755年にイギリス植民地当局によって入植地(現在のノヴァスコシア州)から追放された.この「ディアスポラ」体験は,今日まで彼らのアイデンティティの核となってきた.また,19世紀末の一連の
    アカディ
    アン・ナショナル会議で選ばれた象徴(守護聖人,旗,歌など)も,
    アカディ
    アンのアイデンティティを今日まで支え,また可視的なものとしてきた.

     世界

    アカディ
    アン会議は,入植400周年を10年後に控えた1994年に第1回が開催されて以来,
    アカディ
    アンが居住する各地をホスト地域として5年ごとに開催されている.

    Ⅲ 

    アカディ
    アンの記憶と継承

     報告者が参加した第5回はニューブランズウィック州北西部を中心にアメリカ合衆国とケベック州の隣接する一部の地域を,第6回はプリンスエドワードアイランド州とニューブランズウィック州南東部をそれぞれホスト地域として開催された.興味深いのは,それぞれのホスト地域とのかかわりで

    アカディ
    アンのアイデンティティが再確認されることである.すなわち,世界
    アカディアン会議はアカディ
    アンのアイデンティティを統合・強化するのみならず,居住する各地を参加者らに展示する役割をも担っている.

  • *大石 太郎
    日本地理学会発表要旨集
    2015年 2015s 巻 618
    発行日: 2015年
    公開日: 2015/04/13
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに  
    アメリカ合衆国では時代によって移民の出身地が異なり、移民とその子孫(エスニック集団)の存在は諸地域を特徴づける要素のひとつとなっている。したがって、それぞれの地域を特徴づける移民・エスニック集団に注目することは、アメリカ合衆国を地理学的に理解するためのひとつの方法といえる。最近では、移民・エスニック集団の伝統文化は地域の観光資源になりつつある。各地で開催されるエスニック・フェスティバルは、観光資源であると同時に、アイデンティティを確認する装置でもある。そこで本報告では、メイン州北部に居住するフランス系住民
    アカディ
    アンを研究対象とし、
    アカディ
    アン・フェスティバルに注目して彼らのアイデンティティを検討することを目的とする。現地調査は2012年から2014年までのいずれも8月に実施した。

    2.メイン州のフランス系住民
    アカディ
    アン
    アメリカ合衆国のフランス系住民は、フランスではなくカナダからの移住者の子孫が大半をしめており、以下の3つの集団に分けられる。第一に、ルイジアナ州南部に居住するケイジャンである。第二に、ニューイングランド各州の都市に居住するフランス系住民である。彼らは、19世紀後半から20世紀前半にかけて、ニューイングランドで発展した繊維工業の労働者として現在のケベック州やニューブランズウィック州から流入した人々の子孫である。第三に、メイン州北部でカナダとの国境になっているセントジョン川流域に居住する
    アカディ
    アンである。彼らは国境をはさんで隣接するニューブランズウィック州に居住するフランス語系住民
    アカディ
    アンとルーツを同じくする集団であり、アメリカ合衆国と現在のカナダとの国境を確定させたウェブスター・アシュバートン条約(1842年)によってアメリカ合衆国に帰属することになった。  メイン州北部の
    アカディ
    アンはその後、英語への同化圧力にさらされるようになり、1960年代になると通婚などによるカナダ側との交流も少なくなった。カナダ側の
    アカディ
    アンは1880年代にアイデンティティに目覚め、たとえば8月15日(聖母被昇天の日)を集団の祝日に定めるなどの動きがみられた。また、1969年にカナダ連邦およびニューブランズウィック州においてフランス語が英語とならぶ公用語とされたことでフランス語の地位が向上した。一方、メイン州ではValley Frenchとよばれるフランス語が話されており、1980年のセンサスによると一部のコミュニティでは依然として80%前後の世帯でフランス語が使われていたものの、1970年代には
    アカディ
    アン文化は保全(preserve)される(べき)存在となっていた。そして、6月28日が
    アカディ
    アンの日とされ、1978年から6月下旬に
    アカディ
    アン・フェスティバルが開催されるようになった。

    3.世界
    アカディ
    アン会議の開催とアイデンティティ
    1994年から5年ごとに開催され、世界中から
    アカディアンが集まる機会となっている世界アカディ
    アン会議が、2014年8月にメイン州北部の
    アカディ
    アン・コミュニティも主催する立場に加わってニューブランズウィック州北西部を中心に開催された。これにあわせて、カナダ側の
    アカディアンのイベントで一般に行われるタンタマルがアカディ
    アン・フェスティバルに導入され、さらには
    アカディ
    アン・フェスティバル自体が2012年から8月中旬の開催に変更されるなど、メイン州北部の
    アカディ
    アンとその社会に大きな変化をもたらしている。
  • *大石 太郎
    日本地理学会発表要旨集
    2017年 2017a 巻 405
    発行日: 2017年
    公開日: 2017/10/26
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに  
    近年,観光の発展は地域活性化の鍵となりつつあり,活用しうる観光資源の発掘が急務となっている.なかでも地域文化は潜在的な観光資源として注目されており,たとえば北アメリカでは各地域における移民史と移民がかつて持ち込んだ文化を活用した観光振興がみられる.こうした動きは,広い意味ではエスニック・ツーリズムと理解されようが,たとえば「伝統の創造」という視点でとらえきれるものばかりではない.本報告では,現地調査に基づいて,カナダ東部の沿海諸州(ノヴァスコシア州,ニューブランズウィック州,プリンスエドワードアイランド州)に居住する
    アカディ
    アンの文化とそれを活用した観光振興を検討する.  
    2.
    アカディ
    アンのアイデンティティ
    アカディ
    アンとは,沿海諸州に居住するフランス語を母語とする人々である.ケベック州のフランス語系住民(ケベコワ)と異なる入植の歴史があり,姓が特徴的であることから,フランス系カナダでは十分に区別可能な存在である.フランス語を母語とする人々は,ニューブランズウィック州では人口の約3割をしめ,その多くは北東部,北西部,南東部に居住している.ニューブランズウィック州はカナダで唯一英語とフランス語を公用語とする州である.ノヴァスコシア州では南西部および東部ケープブレトン島の北西部にフランス語話者のコミュニティがみられ,プリンスエドワードアイランド州では西部に古くからのコミュニティが存在してきた.これら2州は英語への同化の進行が著しいが,1990年代以降,教育の分野を中心にフランス語の継承に対する制度的支援が本格化している.
    彼らのアイデンティティが確立されたのは1880年代のことである.沿海諸州各地でカトリック教会の聖職者を中心としたフランス語話者のエリートが集まる「
    アカディ
    アン・ナショナル会議」が数回にわたって開催された.そして,「国旗」としてフランス国旗に黄色の星を加えたもの,「国歌」として賛美歌アヴェ・マリス・ステラが採択され,アイデンティティ象徴体系が整備された.また,
    アカディ
    アンの祝日として守護聖人マリアにちなんで8月15日(聖母被昇天の日)が選ばれた.これらのアイデンティティ象徴体系の重要性は現在でも失われておらず,
    アカディ
    アンの多く暮らすコミュニティではカトリック教会やフランス語を教授言語とする学校といった関連施設のみならず,多くの民家で「国旗」がはためいている.  
    3.
    アカディ
    アン文化を活用した観光振興
    1880年代に確立した
    アカディ
    アンのアイデンティティ象徴体系は,その成立の経緯を反映して,宗教色の強いものである.フランス系カナダに共通することであるが,伝統的にカトリック信仰はフランス語と並ぶアイデンティティの核であった.しかし,最近では世俗化が進行しており,1990年代までは各教区に司祭が住んでいたが,最近では中心的な教会の司祭が複数の教会でミサを行うようになっている.
    そうしたなかで,
    アカディ
    アン文化を活用した観光イベントにも新たな動きがみられるようになってきた.まず,タンタマル(Tintamarre)の各地への拡散である.タンタマルとは,身近な鳴り物を鳴らしながら練り歩く仮装パレードであり,ニューブランズウィック州北東部のカラケットで始められたが,近年では沿海諸州各地に広がりをみせている.また,同州南東部のモンクトンでは2010年代に入ってから8月15日を中心とする時期に
    アカディ
    ・ロック(Acadie Rock)という音楽祭が開催されている.
  • 1971年と1991年との比較
    大石 太郎
    新地理
    2003年 51 巻 1 号 32-46
    発行日: 2003/06/25
    公開日: 2010/04/30
    ジャーナル フリー
  • 大石 太郎
    季刊地理学
    2001年 53 巻 1 号 1-20
    発行日: 2001/03/25
    公開日: 2010/04/30
    ジャーナル フリー
    本稿は, カナダ・ニューブランズウィック州の言語使用状況とその形成要因を考察することを目的とした。また, カナダの地理学における言語社会研究で関心が寄せられてきた言語のテリトリー化についても検討した。
    カナダ・ニューブランズウィック州はフランス語系住民が約3割をしめており, 1969年に英語とフランス語が公用語とされて以降, 住民の二言語化が進行した。とくに, 英語系住民とフランス語系住民が混住している州南東部では若年層を中心に英語系住民をも含めた住民の二言語化が顕著である。このような言語使用状況が形成された要因には, 次のようなことが考えられる。第一に, フランス語の公用語化, 教育, 家庭環境, フランス語系住民の適応戦略によってフランス語系住民がフランス語を維持している。第二に教育やフランス語の国際語としての評価の高さなどから一部の地域では英語系住民の二言語化も進んでいる。第三に, 言語境界線上の都市の存在も, 言語のテリトリー化の進行を阻害し, 逆に住民の二言語化を促進している。
  • -ノートルダム・ドゥ・ラソンプション大聖堂の史跡指定を中心に-
    大石 太郎
    地理空間
    2020年 13 巻 3 号 161-177
    発行日: 2020年
    公開日: 2021/03/16
    ジャーナル フリー
    本稿では,カナダ国立公園局の史跡情報データベースおよび現地調査にもとづいて,カナダの沿海諸州に居住するフランス語系少数集団
    アカディ
    アンに関連する史跡を事例に,エスニック集団の文化遺産を活用した地域活性化の試みを検討する。最近まで,
    アカディ
    アンに関連する国指定史跡は18世紀以前にさかのぼるフランス植民地時代や英仏植民地抗争期の要塞などがその大半をしめていた。 2017年に史跡指定が発表されたノートルダム・ドゥ・ラソンプション大聖堂は20世紀半ばの建築であり,マイノリティとして苦難の歴史を歩んできた
    アカディ
    アンのレジリエンスの象徴である。大聖堂は,史跡指定により文化遺産としての価値を増したことに加え,最新の技術を活用したデジタル博物館としてよみがえり,とくに北アメリカ各地に居住する
    アカディ
    アンの末裔によるルーツ・ツーリズムを中心に観光客の増加といった地域活性化への貢献が期待される。
  • 宇津 まり子
    英文学研究 支部統合号
    2018年 11 巻 83-86
    発行日: 2018年
    公開日: 2019/02/07
    ジャーナル オープンアクセス
  • 長谷川 秀樹
    フランス語教育
    2002年 30 巻 73-85
    発行日: 2002/05/25
    公開日: 2017/10/14
    ジャーナル フリー
    Le francais comme langue minoritaire n'est, par definition, pas une langue maternelle, ni langue etrangere, ni langue seconde. C'est, par exemple, celui qu'on pane dans le pays cadien, region sud-ouest de la Louisiane. Les gens dans le pays sont des franco-americains qui s'appelent <<Acadiens>> ou <<Creoles>>, mais surtout apres la guerre le francais louisianais etait de plus en plus degrade a cause de l'<<americanisation>> de leur vie. En 1968, la fondation du CODOFIL, conseil d'etat pour l'education du francais en Louisiane, a change la situation. Les ecoles cadiennes qui avaient interdit jusqu'a cette epoque l'enseignement du francais ont commence la classe de langue francaise et l'<<immersion>>, classe d'autres disciplines enseignees en francais. Maintenant as sont presques tous recrutes de France, Belgique et Quebec, mais dans l'avenir le pourcentage des enseignants louisianais sera plus eleve. Mais quelques questions restent. Quel francais doit-on enseigner? C'est-a-dire, le francais parisien (en anglais Standard French, SF) ou le francais louisianais (Cajun French, CF). Cette question cause beaucoup de controverse depuis longtemps. Une autre question est l'alphabetisation des adultes. Parce que les enfants qui apprennent le SF dans les ecoles, en fait, ne peuvent pas bien communiquer avec les adultes qui ont appris le CF dans la famille mais qui ne peuvent pas l'ecrire.
  • -特集号の総括にかえて-
    山下 清海
    地理空間
    2020年 13 巻 3 号 271-274
    発行日: 2020年
    公開日: 2021/03/16
    ジャーナル オープンアクセス
  • 福田 珠己
    人文地理
    2019年 71 巻 1 号 56-57
    発行日: 2019年
    公開日: 2019/04/23
    ジャーナル フリー
  • 松山 洋
    地理学評論 Series A
    2018年 91 巻 6 号 506-507
    発行日: 2018年
    公開日: 2022/09/28
    ジャーナル フリー
  • 長部 重康
    社会経済史学
    1995年 60 巻 5 号 728-730
    発行日: 1995/01/25
    公開日: 2017/09/28
    ジャーナル フリー
  • 佐藤 有
    日本教育学会大會研究発表要項
    1980年 39 巻 12-
    発行日: 1980/08/22
    公開日: 2018/04/20
    研究報告書・技術報告書 フリー
  • 西洋史学
    1994年 176 巻 64-
    発行日: 1994年
    公開日: 2024/08/23
    ジャーナル フリー
  • 鈴木 寛
    計画行政
    2012年 35 巻 1 号 14
    発行日: 2012/02/15
    公開日: 2022/04/18
    ジャーナル フリー
  • Noriyuki NISHIYAMA
    Revue japonaise de didactique du français
    2009年 4 巻 1 号 251-252
    発行日: 2009/10/17
    公開日: 2017/12/20
    ジャーナル フリー
  • 坂野 正則
    史学雑誌
    2004年 113 巻 8 号 1372-1405
    発行日: 2004/08/20
    公開日: 2017/12/01
    ジャーナル フリー
    In the colonial history of early modern France, the research has dealt mainly with the regime of mercantilism. However, New France did have colonial functions, agricultural, commercial, military, and religious. In particular, the religious function was one of the most important at the beginning of 17^<th> century. Accordingly, the aim of this article is to examine the religious character of colonization in connection with the movement of French Catholic reconquest. There are three arguments presented in this article. First, the colonial strategy was to construct "Catholic French colonies" as shown by the religious policy of the Company of New France (Compagnie des Cent-Associes) and its group of investors (associes). In order to carry out this strategy, the royal government planned missionary campaigns of Counter-Reformation across the Atlantic Ocean, in which La Rochelle, an influential French protestant capital, was remodeled into a crossroads of Catholic reconstruction and became the vanguard of the construction of the Colony in New France. Secondly, the mutual relation between private colonial enterprises of La Rochelle and colonial mission is supported by the close combination between merchants and clergy mernbers thr-ough relatives, donations, and presentations, as well as usual net-work between metropolitan areas and this colony formed by sending trade ships, and engage's to Canada. Lastly, not only personnel and commodities, but also pastoral techniques invented and developed by the Counter-Reformation were brought there through missionary organizations and put into practice for the conversion of native Canadians and maintenance of the faith of colonists. At the same time, there was some local conflict among missionary organizations, caused indirectly by structural friction within Catholicism in France. Therefore, these two characters of the colonial mission suggest difficulty for the religious colony to develop singly. However, we can see clearly the character of the origins of colonization as religious ; and this character continued as its foundation through the parish system and educational institutions for maintaining French colonial society until 1763.
  • 人文地理
    1992年 44 巻 6 号 741-746
    発行日: 1992/12/28
    公開日: 2009/04/28
    ジャーナル フリー
  • 長嶋 俊介
    社会・経済システム
    1987年 5 巻 28-29
    発行日: 1987/11/01
    公開日: 2017/07/28
    ジャーナル フリー
  • 久武 哲也
    人文地理
    1982年 34 巻 2 号 189-191
    発行日: 1982/04/28
    公開日: 2009/04/28
    ジャーナル フリー
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