本稿の目的は,長い間実現しなかった日米航空自由化が実現した要因,自由化ができたのにも関わらず羽田空港の昼枠について米国と合意ができていない要因について明らかにすることである。Pierson(2004)の研究などを歴史的制度論の研究を基に分析枠組みを設定し,おもに調整問題や拒否点という4つの視点から制度変化の要因を分析した。その際,航空会社,空港会社,国交省,政治家等の関係者へのヒアリング等,定性的な手法を用いた。
オープンスカイの実現に至る過程では,拒否点,調整問題,正のフィードバックで変化がみられた。拒否点については,成田空港周辺自治体の発着枠拡大への合意,JALの破綻による,航空会社の政府への影響カとオープンスカイヘの姿勢の変化が見られた。調整問題については,新しい仕組みATI(制度)の導入により,自由化への航空会社の見解が変化し,また,国土交通省の国外航空会社を守るという認識が変化した。さらに,政権交代により,成田空港だけが国際空港の中心であるという方針が変更した。こうした拒否点,調整問題の変化は,自由化に対する国土交通省の交渉時の選択肢を増やし,米国とのオープンスカイに合意しないという90年代から続いた正のフィードバックの状況を変化させることになった。
つまり,日米航空自由化拒否点や調整問題,それに続く正のフィードバックに変化があったためであることが明らかになった。加えて,資産特定点の影響が,自由化の内容に制限を与えることも明らかになった。
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