近代日本における農業開発の構想と実践というテーマで問題設定した場合、典型的な事例を提供すると思われるのは北海道である。北海道では、明治初期に米国から外国人顧問を招き、米国流の方法でもって農業開拓を進めようと構想された。その背景には、開拓使次官・長官であった黒田清隆の経歴や、交友関係に影響された思想と、当時の政治状況があったと考えられる。
周知のように、薩摩藩出身の黒田は戊辰戦争で活躍し、その武勲を高めた。本人は軍人として大成することを望んだようであるが、兵部省内部での不和から開拓使に転じ、最初は樺太専務の次官(のちに長官)となって、北地の政治・行政に辣腕を振るった。黒田が開拓使に転任されたのは、函館での戦闘経験が評価されたものと思われる。
黒田は、1870年の開拓使次官就任当初から、北海道の開発に当たっては、外国人顧問を招聘し、その指導のもとに事業を行う考えを持っていた。それが具体化したのが、翌1871年における黒田の渡米と、結果として当時の合衆国現役の農商務長官、
ホーレス
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ケプロン
の開拓使顧問就任であった。ケプロンは1875年まで在日し、北海道の開拓事業全般について指導・助言を行ったが、農業に関しては、稲作を否定し、大型農具を用いた小麦作中心の畑作と畜産を組み合わせた、輪栽式畑作農業を推奨した。それに対応して、食生活の欧米化も主張した。黒田はケプロンの考えを支持し、開拓史時代初期には、このような欧米流の農業が奨励されたが、それは一般的に普及するには至らなかった。
以上の経緯において特徴的であるのは、1870年という早い段階から、黒田は海外から顧問を招聘しようと考え、翌年には実践していることであり、その対象が米国であったことである。黒田が早くから欧化主義者であったのは、薩摩藩時代、開明的な環境の下、海外留学を志望した(実現せず)ことがあげられる。そして、米国への注目は、福沢諭吉との交流や、米国に外交官として赴任していた森有礼らの影響が考えられる。また、1870年の半ばに日本の外交姿勢が、親英路線から親米路線へと変わったこと、米国においても、日本への関心が高まっていたという政治状況も指摘できよう。
なお、1871年のケプロン来日後、米国一辺倒ともいえる北海道農政は、財政難を理由に、早くも1873年から転換を余儀なくされる。同年には札幌官園において陸稲の試作が行われ、翌1874年には黒田自身、上州へ養蚕の視察に出かけ、北海道における養蚕の振興策を検討している。また、1875年には中国から農夫を雇い入れ、試験的に農業開拓を試みさせている。黒田は、ケプロンを支持しながらも、他の方策も平行して模索する状況にあった。
本研究は、平成17~20年度科学研究費補助金、基盤研究(B)、公権力の空間認識に係る近代歴史地理学的研究(課題番号17320130、代表者:山根拓)による成果の一部である。
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