北部九州
の古墳時代は埋葬施設の多様性と変化が顕著であり,それをもとにして
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の地域性に関する議論が進められている。ただ,これまで主として議論の材料となったのは玄界灘沿岸から有明海沿岸の
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西部の様相であり,首長墓級古墳の動向であった。さらに
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の地域性を追求するためには,
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東部と中小古墳の動向の解明を進める必要があると思われる。そこで,本稿では古墳時代前期・中期の
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東部の埋葬施設を中小古墳まで含めて検討してみた。各種埋葬施設の編年,階層的関係とその変化を検討してみたところ,古墳時代中期初頭には首長墓級古墳から新たな埋葬施設の採用が始まること,しかし,それは中小古墳に次第に取り入れられたことを明らかにすることができた。
検討を行ったのは
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東部の事例であるが,このような現象は
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西部でも指摘できる。先学が埋葬施設の多様性と変化から導きだした
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西部の東部に対する政治的,文化的先進性は否定できないが,
北部九州東部と西部に共通してみられる埋葬施設の変化の原則は北部九州
の東西に及ぶ等質的な階層性を反映したものと思われる。畿内との比較から考えても,この階層性は
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に特殊な氏族的関係の存在を示唆するものであり,
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の地域性のひとつと捉えられる。
また,検証は十分ではないものの古墳時代前期,中期の階層性から,
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における首長と中小古墳営造者層の問に取り結ばれる氏族的関係の内容について考えてみた。前期は首長墓級古墳と中小古墳で埋葬施設が共有されることから,首長層の突出が顕著でないと考えた。一方,中期になると首長層は新たな埋葬施設を取り入れ,中小古墳営造者層との格差を強調しようとするものの,中小古墳では首長墓級古墳に導入された新たな埋葬施設を順次,採用する。これを首長層が階層的な格差を強調する一方で,中小古墳営造者層が前期以来の関係を維持しようとつとめたためと推測した。
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