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クエリ検索: "池谷和信"
417件中 1-20の結果を表示しています
  • 小泉 武栄
    地理学評論 Series A
    2010年 83 巻 2 号 212-213
    発行日: 2010/03/01
    公開日: 2012/01/31
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  • 河合 利光
    文化人類学
    2022年 86 巻 4 号 700-703
    発行日: 2022/03/31
    公開日: 2022/07/20
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  • 高橋 春成
    地理学評論 Series A
    2012年 85 巻 4 号 413-415
    発行日: 2012/07/01
    公開日: 2017/11/03
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  • -1960~1970年代-
    *池谷 和信
    日本地理学会発表要旨集
    2023年 2023a 巻 616
    発行日: 2023年
    公開日: 2023/09/28
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    1 はじめに 焼畑農耕(shifting cultivation)は,日本や世界の多様な農耕形態の一つであり人類の食糧獲得法である一方で,近年では熱帯林の消失の原因として循環型の持続的な資源利用として注目されてきた(佐藤1999, 2021; 池谷ほか2022; 池谷2023).また,これは「ある土地の現存植生を伐採・焼却等の方法を用いることによって整地し,作物栽培を短期間おこなった後,放棄し,自然の遷移によってその土地を回復させる休閑期間をへて再度利用する,循環的な農耕である」と定義される(福井1983).ただ,その農耕が「いつから始まりどのように展開して現在に至るのか」,日本や世界の焼畑農耕の全体像が明らかになっているわけではない.例えば,世界における焼畑の北限,高度限界,各地域における微細な分布などのテーマが挙げられる. 報告者は,これらの問題意識のもとに熊本県の五木村で撮影した佐々木高明氏の写真を整理して民博・データベース(焼畑の世界-佐々木高明のまなざし)として公開する一方で(佐々木1970; 池谷2021),現在も焼畑を維持しているペルーアマゾンの村での現地調査を行ってきた(池谷・増野2023).そこで本報告では,主として地理学者の撮影した焼畑の写真を整理することから写真資料を使用して上述の課題の一部に答えることをねらいとする.具体的には,佐々木高明,端信行,福井勝義ほか国立民族学博物館所蔵の写真資料を主として利用した. 2 結果と考察  熱帯・温帯の焼畑は,サバンナ(カメルーン中部)や熱帯林(インドネシア・ハルマヘラ島)や温帯林(九州・五木村)で自然環境は異なるが,伐採,火入れ,播種,除草(日本のソバ栽培ではない),収穫などの過程は共通している.また,樹木の伐採ではインドのパーリア,ザンビアのベンバ,日本の五木村にて枝打ちが行われたが,木から木に移動しての伐採は五木村を含む九州山地のみでみられた.さらに,焼畑地での耕作年数は,日本国内では3-5 年であるのに対して国外では1-2年がほとんどであった.国外では焼畑放棄後の森林資源の商品化が進むのに対して,国内では焼畑が山茶,山桑,楮・ミツマタ,カブのような商品生産とかかわっているのが特徴である. 以上のように本報告では,研究者の撮影した写真は,どこまで焼畑研究資料として有効であるのか否か,複数の調査地点の資料を組み合わせて地域情報にすることはできるのか否かを検討したが,その可能性についても展望する.なお,本研究は,科研費「20世紀中期以降における焼畑と熱帯林の変容メカニズムの地域間比較研究(20H00046,代表:佐藤廉也)」の成果の一部である. 参考文献 

    池谷和信
    2021. 佐々木高明の見た焼畑ー五木村から人類史を構想する. 季刊民族学45(3): 4-13.
    池谷和信
    2023. 『図説 焼畑の民ー五木村と世界をつなぐ』千里文化財団.
    池谷和信
    ・増野高司2023. ペルーアマゾンにおける先住民の村の焼畑と休閑地利用. 日本地理学会発表要旨集103: 210.
    池谷和信
    ほか 2022. 討論 焼畑は環境破壊かー
    池谷和信
    ・米家泰作・佐藤廉也』焼畑を再考する① 新たな焼畑像を探る―佐々木高明の研究を超えて. 季刊民族学46(3): 105-107. 佐々木高明 1970. 『熱帯の焼畑-その文化地理学的比較研究-』古今書院. 佐藤廉也 1999. 熱帯地域における焼畑研究の展開-生態的側面と歴史的文脈の接合を求めて. 人文地理51(4): 47-67. 佐藤廉也 2021. 英語圏における焼畑研究の動向に関するノート:2014-2021年の論文を中心に. 待兼山論叢 日本学篇55: 1-18. 福井勝義 1983. 焼畑農耕の普遍性と進化-民俗生態学的視点から-. 大林太良編『山民と海人-非平地民の生活と伝承』235-274.小学館.

  • 板久 梓織
    文化人類学
    2021年 86 巻 3 号 496-499
    発行日: 2021/12/31
    公開日: 2022/04/14
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  • タイ北部における地域比較
    *中井 信介, 池谷 和信
    日本地理学会発表要旨集
    2025年 2025s 巻 635
    発行日: 2025年
    公開日: 2025/03/31
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    1 はじめに

     国家の特定の地域内において、いくつかの民族がすみ分けて暮らす状況、いわゆる多民族の共存状況も、過去の履歴をたどると、何らかの形成過程を確認することができる。また、フィールド調査で観察できる現在の地域の状況も、動的に変容しつつある過程の、一断面を確認している。いわゆる環境史と呼ばれる研究群も、このような視点から把握できる(cf. 池谷編2009)。

     例えば東南アジアの大陸部では、盆地にタイ族やラオ族あるいはビルマ族など、過去に王国を形成し、現代では近代国家を構成する主要民族である水田稲作民が暮らしてきた。そして、標高1000m程度の山地には、多様な少数民族が焼畑農耕や狩猟採集をして暮らしてきた。これらの民族の生業は、それぞれの変容過程にある。

     本発表ではタイ北部の東側(ナーン県:ラオスと国境を接する)の事例から、地域における各民族の生業変容の状況を整理する。とくに移住とその後の定住化の影響に焦点を置いて検討する。また、西側(メーホンソーン県:ミャンマーと国境を接する)の状況整理を若干行い、生業変容をめぐるタイ北部の各民族の状況について、東と西の地域比較を試みる。

    2 結果と考察

     筆者がこれまで主な調査を行ってきた、タイ北部の東側に位置するナーン県(2013年に人口約48万人)は、盆地にはタイ系民族、山地にはモン(Hmong)族(2002年に人口約2.5万人)やミエン族やカム族が暮らしてきた地域である(中井2013、2025)。さらに狩猟採集を主な生業としてきたムラブリ族(2010年に人口約350人:隣のプレー県を含む)も暮らしてきた(Nakai and Ikeya 2021)。

     例えば、あるモン族の村(HY村:2005年に人口632人)では、2000年代以降の換金用トウモロコシ栽培において、近隣のムラブリ族を労働者として利用する集団が存在し、また収穫時にカム族を労働者として利用する事例が存在した。そしてカレン族は、キリスト教の教会関係者として、ごく少数(HY村には2006年に2名)が暮らしてきた。近隣のミエン族は、モン族より人口規模は小さいが、モン族とほぼ類似した生業を営んでいる。

     タイ北部の西側(メーホンソーン県)は盆地が少なく、タイ系民族よりも少数民族が多く暮らしている。山地には多くのカレン族が暮らし、あわせてモン族も暮らしてきた。しかし、ムラブリ族はメーホンソーン県での確認事例がない。東隣のチェンマイ県では1950年代の記録が最後で、以後はチェンマイ県より東側でのみ確認されてきた。

     現在のタイ北部の領内に、カレン族(チベット・ビルマ語系)は西側から移住して、18世紀後半に到着している。いっぽう、モン族(ミャオ語系)は東側から移住して、19世紀後半に到着している。21世紀の視点からみると、タイ北部地域の山地に存在した未利用の資源を、到着時期が約100年間異なる集団が、それぞれ定住化を進めながら利用してきたことになる。

    文献

    池谷和信
    編2009.『地球環境史からの問い ヒトと自然の共生とは何か』岩波書店.

    中井信介2013.自然資源利用と豚飼育 タイ北部の山地農村の事例から.

    池谷和信
    編『生き物文化の地理学』193-209.海青社.

    中井信介2025.『豚を飼う農耕民 タイにおけるモンの生業文化の動態をめぐる民族誌』明石書店.

    Nakai, S. and Ikeya, K. 2021. Mobility and the Continuity of the Relationship between Hunter-gatherers and Farmers in Thailand. Senri Ethnological Studies 106: 181-194.

  • 危機に対する戦略としてのモラル・エコノミ
    池谷 和信
    アフリカ研究
    2007年 2007 巻 70 号 91-101
    発行日: 2007/03/31
    公開日: 2010/04/30
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    アフリカ南部のカラハリ砂漠に暮らす狩猟採集民サンの社会は, 平等主義社会の典型であるといわれる。本稿では, 危機に対する戦略としてのモラル・エコノミーという枠組みから, 市場とのつながりをもちつつも, 生存維持的志向を持つサンの経済行動の特質を把握する。具体的には, サンの分配の地域性を把握すると同時に, ボツワナ中部のガナに焦点を当てることで, 彼らのなかでの分配の実践や貯蔵方法を生業別に報告する。その結果, 獲物や収穫物の所有者は, 生業ごとにあらかじめ緩やかなルールによって決められていること, 狩猟採集のみならず農耕牧畜においても「持つ者」から「持たざる者」への分配システムが働いていること, とりわけ農耕では収穫時期の畑の近くにキャンプが移動してきたあとに収穫物が分配されていたことが明らかになった。また, 彼らは, 自給用に加えて, 交易用の肉を獲得するための商業狩猟をおこない, 肉の平等分配という原理を維持しながら, 食糧用と交易用の肉とに区別していた。さらに, 本稿の事例とアフリカ (焼畑) 農民の生業とを比較するなかで, ヤギ飼養の重要性が両者のあいだで共通していた。
  • 池谷 和信
    アフリカ研究
    2002年 2002 巻 60 号 75-84
    発行日: 2002/03/31
    公開日: 2010/04/30
    ジャーナル フリー
    「親指ピアノ」は, アフリカで生まれ, 現在でもサハラ以南のアフリカ各地に広くみられる楽器である。本稿では, アンゴラ北東部に暮らすチョクウェの音文化のなかで「親指ピアノ」に焦点をおいて, その楽器の形態やそこから演奏される曲の歌詞を分析することから, チョクウェの音文化と生活とのかかわりあいを把握する。調査は, アンゴラ北東部のドュンド町内や近郊に住む9人の演奏者を対象にして, 聞き取り調査や演奏曲を録音する作業をおこなった。
    チョクウェは, アンゴラ東部を中心にして居住するバンツー系の人々である。彼らは, キャッサバ栽培などの農耕を中心として, 狩猟, 漁労, 出稼ぎなどを複合させた生業を営んでいる。まずこの地域では, 各々の形態の違いに応じて独自の名称を持つ8種類の「親指ピアノ」を確認できた。また, 収集された43曲は, 男性によって単独で演奏されるのもので, すべての曲に歌詞がついていた。このうち31曲の歌詞の内容を分析すると, 経済生活, 男女関係や親子関係, 日常生活, 出来事, 割礼儀礼, 植民地時代の歴史などに分類される。さらに, 1960年代の報告と現在のものとを比較すると,「親指ピアノ」は, 娯楽としては使われている点では共通しているものの儀礼の際には用いられなくなっていた。本稿ではこの楽器の機能として, 歌詞のなかに登場していた様々な出来事が次の世代に伝承されていくことから, 当時の生活世界が反映された個人史が伝承される点に注目している。
  • 山田 仁史
    文化人類学
    2018年 83 巻 1 号 125-129
    発行日: 2018年
    公開日: 2019/02/24
    ジャーナル フリー
  • *池谷 和信, 増野 高司
    日本地理学会発表要旨集
    2023年 2023s 巻 614
    発行日: 2023年
    公開日: 2023/04/06
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    20世紀の末以降、急速な森林減少が世界的な問題となっている。アマゾンでは21世紀においても、その熱帯林の減少傾向が今もなお続いている。例えば、アマゾンの熱帯雨林の6割を占めるとされるブラジルのアマゾン熱帯林は、1970年頃の森林面積を100%とした場合に、1986年に93.7%、2000年に87.9%、2018年に82.7%へと年々減少を続けている。

     森林減少の要因を考えた場合、新たな農地の造成(焼畑以外)、商業的な森林伐採、居住地の拡大など多様な要因が考えられるが、古来より継続されてきたと考えられる焼畑は森林減少のどの程度の要因となっているのかについて疑問を持つ方は多いようである。

     焼畑は世界の熱帯地域から温帯地域にかけて広くみられる農業で、福井(1983)による焼畑の定義によると「ある土地の現存植生を伐採・焼却等の方法を用いることによって整地し、作物栽培を短期間おこなった後、放棄し、自然の遷移によってその土地を回復させる休閑期間をへて再度利用する、循環的な農耕である」と定義されている。焼畑の大きな特徴は、休閑期間を設けることにあるといえる。

     20世紀の中頃までは世界の熱帯地域から温帯地域で広く営まれていた焼畑であるが、20世紀の中頃以降になると日本だけでなく世界的に急速に姿を消しつつある。例えば2010年前後の世界の焼畑の分布を見てみると、東南アジア大陸部の焼畑はラオス北部に一部残るのみで、他の地域では焼畑はほぼ見られなくなっている。焼畑は世界的に風前の灯火といえる農業となっている。このような現状において、現在も焼畑を営みながら暮らす人びとがペルーアマゾンに存在している。

     本報告では、アマゾン熱帯林のうちアマゾン川の最上流域にあたるペルーアマゾンの先住民の村を対象として、焼畑の実態と休閑地利用について把握することをとおして森林環境問題について考えてみたい。すでに、筆者の一人は、調査地においてペッカリー狩猟、その肉や皮の流通を報告してきた(池谷2022)。現地調査は、2020年2月にペルーアマゾンの先住民の村にて行われた。その結果、2世帯の焼畑の分布とそこでのキャッサバを中心とする栽培植物、および休閑地での商業用の樹木の栽培が明らかになった。

    引用文献 

    池谷和信
    2022「社会複雑性の萌芽と形成ーアマゾニアの民族誌から探るー」『年報 人類学研究』第13号、89-100頁、南山大学人類学研究所

    福井勝義1983「焼畑農耕の普遍性と進化-民俗生態学的視点から」『日本民俗文化大系』5巻、235-274頁、小学館。

  • 荒木 一視
    地理学評論 Series A
    2021年 94 巻 6 号 468-469
    発行日: 2021/11/01
    公開日: 2023/02/19
    ジャーナル フリー
  • 石川 博樹
    アフリカ研究
    2021年 2021 巻 99 号 57-60
    発行日: 2021/05/31
    公開日: 2022/05/31
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  • -熊本県五木村の事例(2019-2024)―
    *池谷 和信
    日本地理学会発表要旨集
    2024年 2024a 巻 448
    発行日: 2024年
    公開日: 2024/10/01
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    近年、日本の一部地域で焼畑が見直されている。たとえば焼畑を利用して商品用のカブを生産する山形県鶴岡市、地域おこしの一環としてソバを生産する静岡県井川や熊本県水上村、 学校授業として焼畑体験がなされる宮崎県椎葉村などである。筆者は、このような動向を踏まえて2019年から現在まで、熊本県五木村での焼畑をとおして村の地域振興を進めてきた。ここでは、地域住民、行政、研究者のあいだの相互関係と役割分担をとおして焼畑を利用しての山村の振興過程を把握し、そのあり方について考える。

  • 池谷 和信
    東北地理
    1988年 40 巻 1 号 1-14
    発行日: 1988/01/30
    公開日: 2010/04/30
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    わが国の代表的な狩猟集落として知られる新潟県三面を事例にして, クマ狩りの中で“オソ”と呼ばれる罠猟に着目し, 猟活動, 捕獲数, 罠場の空間的構造などからその実態を復元することを通して, 江戸時代後期における罠猟の発達とその要因について明らかにした。罠場は, 三面川本流, 岩井又川を中心に猿田川, 泥又川流域の尾根に分布する。猟師は各罠場の地形と植生の状況に応じてクマの移動ルートを推定し,“タテオソ”(尾根に平行にかける罠) と“ヨコオソ”(尾根に垂直にかける罠) を組み合わせる。また猟活動は, このような罠を仕掛ける行動“オソキリ”と罠の見廻り行動“オソミ”から成り, 各家で年に平均して1頭のクマを捕獲できる。さらに, 各家が罠を設置する場所“オソバ”は定まっており, 他の家はこれを侵さないという暗黙の了解があった。
    近世後期の戸数の変動と罠場との関係をみると, 明治期以降戦前までの分家にオソバがないこと, またその当時の紀行文から, 多くのクマを捕獲しクマの胆や菅むしろを村上藩に貢いでいたこと, さらに米沢藩の副業奨励として三面のクマの胆や皮を挙げていることから, その当時クマ狩りが発達していたことは明らかであり, その中でも罠猟が中心であったと推察される。
  • *池谷 和信
    日本地理学会発表要旨集
    2014年 2014s 巻 S0510
    発行日: 2014年
    公開日: 2014/03/31
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    1 はじめに
     地理学は、地球上のすべての地表面を対象にした学問であり、人類による微地形利用に関してこれまで多数の研究を蓄積してきた。しかし、これらは世界各地のミクロな地域の事例研究として紹介されることが多く、人類の微地形利用をとおして地球のなかの地域性を把握する枠組みを構築する試みはほとんどみられない。本研究では、筆者が現地調査を進めてきた事例研究を比較することから、人類の微地形利用に関する地域的特性と一般的な傾向を把握することをねらいとする。まず、気候帯によって、熱帯、温帯、寒帯、高山帯、海洋に地球環境を5分類する。そして、そこでの人類の微地形利用の詳細について事例を報告する。
    2 結果
     世界の熱帯は、湿潤と乾燥に分かれる。湿潤では、アマゾン川流域(事例1)とバングラデシュのベンガルデルタ(事例2)をとりあげる。両者とも、氾濫原での微地形利用が特徴的である。水位の変化にともなう氾濫域の違いに応じて、土地利用が異なる。前者ではバナナやキャッサバの農耕地の選択、後者では稲の異なる品種の選択や豚の遊牧などに微地形の条件が大きく関与する。一方で、乾燥では、カラハリ砂漠(事例3)とソマリランド(事例4)をとりあげる。両者とも年間の降水量が500mm以内で、年変動が激しく、干ばつの多発地域である。ここでは、パンや人口プールが人びとや家畜が利用する水を貯蓄するために欠かせない。
     温帯は、日本の東北地方の山地における狩猟、採集、焼畑、放牧のような伝統的生業をとりあげる(事例5)。これらは現在、衰退したり消滅しつつある活動であるが、山地の斜面や平坦部を利用する活動であった。なかでも、ゼンマイ採集活動は、多雪地帯の急峻な地形を細やかに利用するものであり、世界的にみてユニークな利用形態を示す。
     寒帯は、極北のロシア北東部チュコト自治管区をとりあげる(事例6)。ここでの生業の中心は、ツンドラ植生を利用するトナカイ牧畜である。この牧畜の場合、冬季のあいだ降雪の状況が微地形で異なるのに応じて植生が異なっており、トナカイの放牧に影響を与える。なお、4千mを越えるプーノと呼ばれるアンデスの高地(事例7)では、リャマやアルパカの牧畜、ジャマイモなどの農耕が生業の中心である。ただ、微地形が重要であるのか否かは不明である。また、海洋は、熱帯から寒帯まで広がっているが、サンゴ礁での微地形利用が知られている(事例8)。
    3 比較考察
     以上の8事例から、「微地形、植生、土地利用を1つのシステム」として把握することが重要である。筆者は、人類の活動を反映する土地利用から微地形にアプローチしてきたが、現代の地球では、土地と人類とのかかわりが希薄になっていて、地表空間に対する人類のかかわり方の変化を歴史的に把握することが不可欠になっている(池谷編2009)。また、地球のさまざまな気候帯において、農耕、家畜飼育、水利用、採集などの微地形利用に共通性を指摘できる。さらに、人類は狩猟採集、農耕、牧畜、都市の社会へと進化してきたとみられるが、現代の都市の土地利用では、微地形の利用が軽視されてきたことで、さまざまな問題が生じている。筆者は、地理学では古今東西の微地形利用を地球環境史の視点や生き物文化の視点から広く総合的にまとめることが重要であると考えている(池谷編2013)。
    文献
    池谷和信
    編2009『地球環境史からの問い』岩波書店。
    池谷和信
    編2013『生き物文化の地理学』海青社。
  • 岩手県大槌町の事例
    *池谷 和信
    日本地理学会発表要旨集
    2013年 2013a 巻 317
    発行日: 2013年
    公開日: 2014/03/14
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    1.     はじめに  
     これまでの東日本大震災以降の被災地における地域変容や支援活動に関する報告では、避難所や仮設住宅などの地域の居住地変容や漁業や水産加工業を中心とする経済復興に焦点を当てられることが多かった(池谷2011aほか多数)。しかし、地域全体の変容を考えるうえで、神楽、虎舞、鹿子踊りなどの地域の民俗芸能などに関わる文化的側面の把握も必要である(池谷2011b、日高編2012)。そこで、本研究では、東北地方の太平洋沿岸における被災地全体の民俗芸能の動態を視野に入れながら、岩手県大槌町の事例を中心にして過去2年半あまりの変化を報告することを目的とする。報告者は、2011年4月以降現在まで、大槌町臼澤地区における鹿子踊りの芸能集団とのかかわりを深めて、断片的ではあるがそこでの参与観察を行ってきた。なかでも、2012年3月に対象集団が支援へのお礼のために中国公演に行った際も、広州や香港において行動をともにした。
    2.結果と考察
    1)町内には鹿子踊りを担う団体が5つ、虎舞を担う団体が5つあるが、今回の津波による被害は虎舞の団体のほうが沿岸部を本拠地にしていたこともあり大きかった。芸能に欠かせない道具や衣装などが流されたために、芸能の存続が危ぶまれてきた。このため、震災後に虎舞では単独の団体で活動はできず複数の団体からメンバーを集めることで対応してきた。また、両者の芸能とも踊りが中心であり、その主な担い手は20-30代の若者の男性から構成される。
    2)震災後にいち早く活動した芸能集団は多くはなかったが、対象とする集団は2011年4月下旬に被災後最初の活動がみられた。これには、集団の踊りの練習の場となる建物が避難所にしてされたこと、対象地区が内陸に位置していたことで、津波による直接の被害が少なかったことなどが挙げられる。
    3)それから2012年にかけて、対象集団の活動は活発化する。これまで、あまり公演のために町の外に出ることは多くはなかったが、遠野市や盛岡市などの県内、東京都や静岡県、そして中国まで活動の地理的範囲は広がっていった。同時に、町内でも「海の盆」のような新たなイベントが生まれて、他の市町村の芸能集団が集まってくるようになった。ここでは、新たな交流が生まれている。
    4)対象集団は、地域のなかでの様々な行事の際に欠かせない。とりわけ、9月下旬の大槌祭りの際には、集団の力が最大限に向けられる。集団内では、当日、誰が踊りの中心を行うのか否かが論議の的になるが、芸能集団の構成員は世代を超えていて世代を超えて一体となって活動がなされている。また、2011年と2012年とを比べると、2012年には町内の参加団体が増えて、震災前の形にもどりつつある。以上のように、本研究は、震災後の民俗芸能の動態に関する一事例を示したものであるが、他の地域での事例との比較考察が求められる。報告者は、被災地での民俗芸能と地域社会とのかかわりを考える際には、被害の状況、芸能集団の規模、芸能の歴史などが重要な要素であると考えている。 
    参考文献
    池谷和信
    2011a「リスクのなかでのなりわい-避難所での暮らし-」(特集復興への道)『季刊民族学』138号:38-45頁
    池谷和信
    2011b「東日本大震災と民俗芸能の動態」日本民俗学会第63回年会実行委員会編『日本民俗学会第63回年会研究発表要旨集』p.77
    日高真吾編2012『記憶をつなぐ 津波災害と文化遺産』千里文化財団。 
  • 淺野 敏久, 木本 浩一
    地理科学
    2010年 65 巻 3 号 151-153
    発行日: 2010/07/28
    公開日: 2017/04/14
    ジャーナル フリー
  • 池谷 和信
    東北地理
    1988年 40 巻 4 号 287-289
    発行日: 1988/12/20
    公開日: 2010/04/30
    ジャーナル フリー
  • 新潟県三面におけるゼンマイ採集に着目して
    池谷 和信
    東北地理
    1984年 36 巻 2 号 91-104
    発行日: 1984/06/25
    公開日: 2010/04/30
    ジャーナル フリー
    The purpose of this paper is to clarify changes in village lifestyle caused by a dam construction plan. An investigation of Zenmai (Osmunda japonica) gathering in Miomote, Niigata prefecture in Japan was conducted in order to identify such changes. Zenmai gathering is a traditional occupation of the village people, which is highly susceptible to the influences of nature. Changes will be analyzed in accordance with the following four points: 1. Mutual relationship between village people and natural environment as reflected by the way people gather Zenmai. 2. Production of Zenmai and its economic importance to village life. 3. Communal characteristics of the village as represented by the customary practice of Zenmai gathering. 4. People's perception of the balance between nature and their Zenmai gathering activities.
    This paper is based on 40 days field research from May to December in 1981.
    The results can be summarized as follows.
    1) The gathering area for each family around 1970 was determined. The size of these areas did not change following 1970. The village people who gathered Zenmai were aware of Zenmai ecology. The gathering territory was decided by mutual agreement. This produced stability and high Zenmai production.
    2) In 1981 however the area changed as most land came to be used by two or more families. Overgathering, a disregard of Zenmai ecology and destruction of the gathering territory structure occurred. This state of affairs has produced changes in people's perception of their relationship to nature and instability in Zenmai production.
    3) The change in the Zenmai gathering field structure was caused by a dam construction plan, which has been in negotiation for ten years. No final agreement has yet been reached. The other causes of the change were the increase in the number of Zenmai gatherers, and the emergence of new Zenmai gathering areas caused by the expansion of older areas.
    As described in the four points mentioned above, the changes in Miomote, an area waiting a decision concerning the future dam site, show clearly the deterioration of a once stable community toward that of an unstable state.
  • アフリカレポート
    2007年 45 巻 60-64
    発行日: 2007/09/30
    公開日: 2022/05/19
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