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クエリ検索: "藤原京"
670件中 1-20の結果を表示しています
  • 寺崎 保広
    史学雑誌
    2001年 110 巻 1 号 117-125
    発行日: 2001/01/20
    公開日: 2017/11/30
    ジャーナル フリー
  • 高橋 和夫
    日本文学
    1987年 36 巻 5 号 1-11
    発行日: 1987/05/10
    公開日: 2017/08/01
    ジャーナル フリー
    日本の古代都市は、中国のそれらが、すでに宮室と商業地両者のための都市だったのに対し、とうていその規模は及びもつかない。都とは宮殿の所在地で、万葉の歌でも、飛鳥にはじまる京師は、天から降った天皇が国を治める所、その宮殿と認識されていた。この京師が
    藤原京
    になると、飛鳥は故京という、離別の哀愁・廃墟の美が歌心となる。ついで
    藤原京
    に至り、新京讃歌という歌題が出現するが、和歌の伝統的な発想は、都市はもとより宮殿をも新しく歌うことができない。寧楽・恭仁京に至り、新京讃歌と荒都悲歌は和歌の対形式となり、その基本には永遠の都という観念が生まれた。またそれは、地方へ下った官人の、大和思慕から京師思慕の歌へと変り、ここに京師が、全国の中心ということが歌心の問題としても定着する。しかし、地方人の京師への憧れはずっと先鎌倉時代に入ってからであった。
  • 金原 正明, 金原 正子
    可視化情報学会誌
    1994年 14 巻 53 号 79-84
    発行日: 1994/04/15
    公開日: 2009/07/31
    ジャーナル フリー
  • 小笠原 好彦
    日本考古学
    2004年 11 巻 18 号 93-109
    発行日: 2004/11/01
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    紀寺(小山廃寺)は大和の飛鳥に建てられた7世紀後半の古代寺院で,小字キテラにあることから紀氏が造営した寺院とされている。『続日本紀』には紀寺の奴婢を解放する記事があり,これによると天智朝に飛鳥に建てられていたことがわかる。
    この寺院に葺かれた雷文縁複弁八葉蓮華文軒丸瓦は紀寺式軒丸瓦とも呼ばれ,畿内では山背の古代寺院に顕著に葺かれ,さらに地方寺院にも多く採用されている。しかし,近年の研究ではこの瓦当文様が地方寺院まで分布すること,また紀寺に藤原宮から軒丸瓦の瓦当笵が移されていることなどから,紀氏の寺院ではなく,官寺の高市大寺とする考えがだされている。
    一方,紀寺は1973年(昭和48)以降,数回にわたって調査され,
    藤原京
    の条坊に伽藍中軸線をあわせて建立されていることが判明した。このことは
    藤原京
    の条坊施工が開始した天武5年(676)以前には遡れない可能性が高く,紀氏が建てた寺院とはみなしにくくなった。
    紀寺式の雷文縁複弁八葉蓮華文軒丸瓦のうち,最古式のものは山背の大宅廃寺に葺かれ,紀寺と大宅廃寺は少なからず関連をもつ寺院であったとみなされる。この大宅廃寺の軒平瓦の一つである偏行忍冬唐草文の瓦当笵は,後に藤原宮の瓦窯に移動しており,この寺院を藤原氏の寺院とみなす考えがだされている。また平城京に建てられた興福寺の同笵軒瓦が出土する飛鳥の久米寺も藤原宮に軒瓦を供給しており,二つの藤原氏の寺院が藤原宮の屋瓦生産に深く関与している。大宅廃寺と関連をもつ紀寺(小山廃寺)に藤原宮の瓦窯から瓦当笵が移されたのは,この寺院も藤原氏ときわめて関連が深いものであったと推測する。そして,この性格を考えるには,紀寺(小山廃寺)が岸俊男説の
    藤原京
    左京八条二坊,本薬師寺が右京八条三坊にほぼ対称の位置に建立された背景を検討する必要がある。また,創建瓦として葺かれた雷文縁複弁八葉蓮華文軒丸瓦は,持統天皇の乳部の氏寺に葺かれた瓦当文様を祖形にして創出されたものと思われる。
  • 増渕 徹
    史学雑誌
    1997年 106 巻 8 号 1537-1538
    発行日: 1997/08/20
    公開日: 2017/11/30
    ジャーナル フリー
  • 香西 克彦
    日本建築学会計画系論文集
    1996年 61 巻 480 号 195-204
    発行日: 1996/02/28
    公開日: 2017/01/28
    ジャーナル フリー
    This paper starts with a conviction that "Manyoh-Syu" poem no.52. is a text for us, for the structure of scenery. In this poem, the human act of "seeing"- a kind of experience - is translated into words. In this paper, I tried to melt the frozen meaning behind words. Under grasping the phenomenon at the boundary as of scenery, I make clear that it didn't happen at the border-line but at the dot-like place as "Gate". In conclusion, I suggest that the ancient Japanese capital, "Fujiwara-Kyo" was not a walled city, but bounded with "Yamato-Sanzan".
  • 研究の現状と展望
    木原 克司
    人文地理
    1987年 39 巻 5 号 424-444
    発行日: 1987/10/28
    公開日: 2009/04/28
    ジャーナル フリー
  • 河角 龍典
    人文地理
    2001年 53 巻 5 号 477-493
    発行日: 2001/10/28
    公開日: 2009/04/28
    ジャーナル フリー
    The Asuka-Fujiwara region contained the capital of Japan during A.D. 694-710. Many land developments have been carried out in this area over the past two thousand years. It is one of the most important areas in which to consider an analysis of the land development history of Japan. The purpose of this paper is to examine the relationship between geo-environmental changes and land development process of the Asuka-Fujiwara region after the middle of the Yayoi Period. The study identifies five stages in the geo-environmental history of this region. These stages are closely related to land development and land-use change.
    The following results were obtained:
    (1) The middle of the Yayoi Period (B.C.1-A.D.2th c.); A natural levee was formed on the Asuka river basin during this period, followed by soil formation. This soil formation indicates the existence of a stable geo-environment at this stage. The Shibu archaeological site was developed on this dry geo-environment natural levee.
    (2) From the late Yayoi Period to the Kofun Period (A.D.2-6th c.); During this period, the back swamp was buried around the natural levee by sediments from the Asuka river floods. On account of this sedimentation, the natural levee located in the Shibu archaeological site became wetter than it was during the middle of the Yayoi Period. Paddy fields were also developed in this back swamp area during this period.
    (3) From the Asuka Period to the middle of the Heian Period (A.D.7-about A.D.10th c.); By the end of the Kofun Period, sediments from the Asuka river floods resulted in a completely flat landscape. Following this, The soil formation was occured on the floodplain, indicating that the area had become a stable environment during this stage. The development of the Fujiwara Capital and the Jori Grid Plan were constructed on the Asuka river floodplain during this period.
    (4) From the late Heian Period (A.D. 11th c.) to A.D.14th c.; The channel entrenchment that occurred along the Asuka river led to the formation of a Holocene terrace by A.D.12th c. This entrenchment made the floodplain small, and transformed the terrace geo-environment from wet to dry. Paddy fields on the Holocene terrace were abandoned because of this environmental change. As a result, these cultivated lands, including Hida-sho, were later redeveloped by Sho-en developers.
    (5) After A.D. 15th c.; Active sedimentation after A.D. 15th c. produced a natural levee along the Asuka river. This active sedimentation and the building of embankments led to the formation of a raised bed river on the natural levee zone of the Asuka river basin.
  • 宮川 麻紀
    史学雑誌
    2008年 117 巻 12 号 2152-2153
    発行日: 2008/12/20
    公開日: 2017/12/01
    ジャーナル フリー
  • 武廣 亮平
    史学雑誌
    2000年 109 巻 5 号 701-705
    発行日: 2000/05/20
    公開日: 2017/11/30
    ジャーナル フリー
  • ~都城における設計数値の継承~
    高見 友幸
    国際ICT利用研究学会研究会研究論文誌
    2021年 2 巻 1 号 23-30
    発行日: 2021年
    公開日: 2022/06/30
    ジャーナル フリー
    初期平安京の京域は一辺が1500 丈の正方形であるという仮説が我々の最近の研究で提起されている。本論文は,以前の研究とは異なる観点からこの仮説を再検討し,仮説の正当性を補足あるいは補強するものである。本論文では,1)周礼「考工記」の都城モデルに関する検討,2)都城における設計数値の継承に関する確認,3)天円地方の数学に関する提起がなされた。これらの3点は互いに密接な関連性をもっており,初期平安京の正方形仮説を支持している。また,周礼の都城モデルの「方九里」については,宮城の周囲長が厳密に9 里の長さとして設計されたものであることが明らかとなった。なお,本研究は大型将棋の研究に端を発したものであり,遊戯史研究が歴史学に寄与した一例となるものである。
  • 丸山 岩三
    水利科学
    1994年 38 巻 3 号 95-116
    発行日: 1994/08/01
    公開日: 2019/04/30
    ジャーナル フリー
  • 鈴木 喬
    万葉古代学研究年報
    2022年 20 巻 71-94
    発行日: 2022年
    公開日: 2023/03/27
    研究報告書・技術報告書 オープンアクセス
  • 小田 裕樹
    史学雑誌
    2009年 118 巻 5 号 721-726
    発行日: 2009/05/20
    公開日: 2017/12/01
    ジャーナル フリー
  • 平野 卓治
    史学雑誌
    2007年 116 巻 5 号 650-653
    発行日: 2007/05/20
    公開日: 2017/12/01
    ジャーナル フリー
  • *川本 博之
    日本地理学会発表要旨集
    2010年 2010f 巻 604
    発行日: 2010年
    公開日: 2010/11/22
    会議録・要旨集 フリー
    本研究は検証確認できる多くの実在関係の提示と相互関係性の存在発見の指摘である、日本史に重要事物位置に古代国家により永代続く作為により国家的価値観とした位置性に拘る関係性が巨大古墳から現代皇室施設にある。建築学会他で「神社鎮座法の実証的検証研究」として21題発表他している。沖ノ島、宮島、大三島の神島三島が同緯度で、宗像大社沖津宮と厳島神社の祭神が同じに作為を思い全国四千社の神社位置探究から始め、国土地理院の世界測地系変更から有名有力古社約350社と名山に研究対象を限定し、多段階を経て富士山を第一基点山に真西の大山を第二基点山とした国土の名山、宮等と相互関係性で、出雲と富士山と熊野の三角構成の間中に近畿地方を中心性とし、淡路島のイザナギを祀る伊弉諾神宮とイザナギの姫神で皇祖神アマテラスの伊勢神宮を東西関係にし真中に古代国家大和朝廷発祥地の飛鳥がある。各基点地域間の名山名社等に組や対での作為的関係が様々あり、古代国家が成しただろう一元管理的で神社と帝都、官寺が一体の国家的価値観の原理のある位置性を神社鎮座関係と名称化した。富士山と大山の間中に飛鳥、
    藤原京
    、平城京、平安京と主要三都は北上し、他京も論証できる関係は古代に信じ難く常識外の高精度方位関係で、多学界の既成観を覆す内容を認識し、数千を超える多数の明確で意図的な関係に多様な神社実態との対応と、構成的な関係が事例毎にあり、記紀や風土記、神社由緒等を含む文献対応を確認し、検証研究から関係性を確信する。古代国家創生と関係した歴史事物間の位置性は、記紀等を逆検証できる自明の事実で、学界の事物と整合しない推論を駆逐する明確な史実の物証である。本論は三都や三天下城(安土城は俗称の天下城)の位置関係が、富士山、大山、出雲、熊野、房総、大和の特に基点性の高い有名霊山、有名神体山の名山や高社格、有名有力古社との明確な関係の存在を提示している。学界は三都や一部の神社や城などに風水の四神相応説で論じ、特に平安京については四神相応説が定説化している。だが、論拠の風水の古典は本家中国でも明代以降にしかなく、学界が唱える中国風水と違うと云う日本風水の古典はない。後代の帝都と関係のない「作庭記」などが典拠とされるが文献記事に付会した説で、そもそも明確な具体的関係がないが多くの学界で様々論じられ通説となっている。神社に関しても、土着的な山などの自然信仰から祖霊信仰などが習合し神社神道になったとする通説がある。独立峯や主峰でない支尾根が何故選択され信仰対象になるのか、自然信仰から記紀の人格神を祀る祭神が変更になる事等を論証せず、国が編纂した記紀を神典とし、記紀神を祀り、国が社格を付け神名帳に記し管理し、国が幣を与え、国司が参る存在が高社格社であるが、国の強い関与性や本宮別宮摂末社等の多様な神社実態が解明されていない。神社神道の自然信仰発祥発展説と多様な神社実態とは多くが整合しないが、学界はその解決を希求せず、神の事、神代の事は不明が当然とした不合理な推論を国家国民に供してきた。歴史学、国文学、民俗学、宗教学、歴史学の下位の建築史学等が認め看過してきた二つの通説に明確な根拠がなく事実と整合しないが学界権威故か既成観である。明らかな不合理を関連学界の全てが認めた状態で疑問を思わない不思議がある。帝都も神社も記紀に書かれた事物で、記紀の神々を祀る神社、宮等には推論では導出できない多くの作為的事実関係がある。古代に国土形状を把握し構想し実現された関係は、古代国家大和朝廷の飛鳥が計画首都である事を示す明確な神社鎮座関係がある。本研究の指摘関係は自明の事実で作為的関係で偶然でない史実である。
  • 高橋 慎一朗
    史学雑誌
    1997年 106 巻 8 号 1538-1539
    発行日: 1997/08/20
    公開日: 2017/11/30
    ジャーナル フリー
  • -藤原京スタディ追跡調査結果による後向き分析-
    羽崎 完, 峯松 亮, 原納 明博, 岡本 希, 車谷 典男
    理学療法学Supplement
    2013年 2012 巻 E-P-24
    発行日: 2013年
    公開日: 2013/06/20
    会議録・要旨集 フリー
    【目的】 一般に加齢に伴ってQOLは低下するとされているが,QOL低下のメカニズムについてはいまだ不明な点が多い。そこで,QOLの尺度のひとつである身体機能に着眼し,身体機能の変化と運動能力の関係,さらに身体機能の変化と住環境との関係を
    藤原京
    スタディ追跡調査をもとに検討した。【方法】 対象は,
    藤原京
    スタディベースライン調査に参加した65歳以上の高齢者で,2年後に行った追跡調査の協力が得られた者のうち,QOLに関する質問に対して回答のあった3,933名(男性1,954名,女性1,979名)を対象とした。QOLの評価は,ベースライン調査ではSF-36を,追跡調査ではSF-8を用い,これらの下位尺度である身体機能の結果をもとに,国民標準値に基づいてスコアリングした。運動能力の評価は,筋力,基本動作能力,平衡性,健脚性を測定した。筋力は,膝伸展筋力,膝屈曲筋力および握力を測定した。基本動作能力は,起居動作として寝返り所要時間,起き上がり所要時間および床からの立ち上がり所要時間を,立位基本動作として最大またぎ高および床のものを拾える最大距離を測定した。平衡性は,開眼片脚立位保持時間を,健脚性は10m歩行所要時間を測定した。住環境の評価は,階段の有無および使用頻度,生活様式,住宅周辺環境について自己記入式質問紙を用いて調査した。分析は,スコアリングした身体機能の結果から,男女毎に追跡調査時のスコアがベースライン調査時にくらべ低下した群と維持向上した群に分類し,運動能力項目について対応のないt検定にて比較した。次いで、身体機能低下におよぼす運動能力および住環境の影響の大きさを明確にするために,ロジスティック回帰分析を強制投入法で行い,オッズ比を求めた。【倫理的配慮、説明と同意】 本研究は,奈良県立医科大学の倫理委員会の承認のもと,対象者からも同意の署名を得た。【結果】 QOL評価の結果男性では,低下群が1,193名,維持向上群が761名と低下群の方が多数であったのに対し,女性では低下群が887名, 維持向上群が1,092名と, 維持向上群の方が多数となった。t検定による群間比較では,男女ともに最大またぎ高,床拾い最大距離に有意な差は認められず,これら以外のすべての項目で有意に低下群の運動機能が高かった(p<0.001)。さらにロジスティック回帰分析の結果,男性では生活様式のオッズ比が0.85(95%CI 0.74-0.97),膝伸展筋力のオッズ比が0.90,床からの立ち上がり所要時間は1.21(95%CI 1.05-1.39),10m歩行所要時間は1.14(95%CI 1.01-1.28)と身体機能低下の有意なリスクとなった。女性では,膝伸展筋力のオッズ比が0.89(95%CI 0.82-0.97),床からの立ち上がり所要時間のオッズ比が1.16(95%CI 1.03-1.30),10m歩行所要時間は1.18(95%CI 1.03-1.34)と身体機能低下の有意なリスクとなった。【考察】 高齢者の身体機能変化と運動能力および住環境の関係を検討した結果,身体機能低下に関係する要因に,性差が存在することがわかった。身体機能低下群と維持向上群の総数が,男性と女性で逆転していた。これは,生活を営む上での役割が異なることによると推察する。つまり,女性が一般的に担うことの多い家事動作は,高齢となっても大きく変化しないため,比較的活動量が維持され,身体機能が維持されやすかったと考える。一方,男性が行うことの多い仕事は,加齢に伴って困難になりやすく全体的な活動量が低下するため,身体機能が低下しやすくなったと考える。そのため,ロジスティック回帰分析においても,男性で有意に生活様式という住環境因子が機能低下の有意なリスクとなり,女性では住環境が有意なリスクにならないという結果になった。したがって,男性のQOL維持のためには,生活の中で活動量を維持増加させる工夫が必要である。また,ベースライン調査にさかのぼると身体機能低下群の方が有意に高い運動能力であった。これは,高い能力の者は大きく低下しやすいのに対し,元来能力の低い者はそれ以上低下しにくいことを示している。つまり,機能の高い者は身体的に予備能力を持って日常生活を過ごしており,加齢によって予備能力が低下するものと考える。さらにロジスティック回帰分析の結果,性差に関係なく膝伸展筋力,床からの立ち上がり所要時間,10m歩行所要時間が機能低下の有意なリスクとなっていることから,これらの要因はほかにくらべQOLに影響しやすいことが確認できた。したがって,総合的に下肢機能を維持向上し身体機能を保つことが,QOLの維持に資することになると考える。【理学療法学研究としての意義】 本研究の結果は,健常高齢者にたいするQOL下位尺度の身体機能低下予防のための理学療法には,総合的に下肢運動機能を維持向上することが必要であること、また、生活を営む上での役割を考慮する必要があることを示している。
  • 高井 佳弘
    史学雑誌
    2001年 110 巻 5 号 731-736
    発行日: 2001/05/20
    公開日: 2017/11/30
    ジャーナル フリー
  • 香西 克彦
    日本建築学会計画系論文集
    1999年 64 巻 515 号 275-282
    発行日: 1999/01/30
    公開日: 2017/02/03
    ジャーナル フリー
    This paper starts with a conviction that "Manyoh-Syu" poen no.52 is a text for the structure of Scenery. It is the last part of the hermeneutic thinking on the poem and the sequel to the previous paper on Scenery of "Yoshino". Considering the meaning of "Mii", or holly well, two places -Yoshino and Fujigahara- were integrated into the whole Scenery Structure of "Fujiwara-Kyo". In conclusion, the Scenery of "Fujiwara-Kyo" can be an example of the principles that the human being lives in the "Twofold-World".
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