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クエリ検索: "難波"
28,079件中 1-20の結果を表示しています
  • 難波長柄豊碕宮の前夜
    栄原 永遠男
    大阪歴史博物館研究紀要
    2017年 15 巻 19-32
    発行日: 2017年
    公開日: 2022/05/14
    研究報告書・技術報告書 フリー
    難波
    屯倉」は、
    難波
    地域の歴史的展開を考えるうえで重要であるが、これまで十分に研究されてきたとは言い難い。その原因は、「
    難波
    屯倉」に付された「钁丁」とそれが持つ「钁」の理解に問題があったからである。これまで「钁」は農具であるので「
    難波
    屯倉」は農業中心のミヤケと考えられてきた。しかし「钁」は土木工事の用具とみるべきである。「
    難波
    屯倉」は、上町台地先端部の土地造成・開拓との関係で理解すべきであり、その結果できた土地や施設の総称とみられる。「
    難波
    屯倉」の機能・性格には時期的な変遷があった。 成立段階の「
    難波
    屯倉」は、
    難波
    津の管理、外国使節への対応、外交、上町台地先端部やその周辺地域の統治、倉庫とその収納物の管理機能などの多面的な性格を持ち、それに対応する諸施設が上町台地先端部の各所に分散配置されていた。しかし、その後、大郡・小郡・
    難波
    館・
    難波
    津の管理組織などが分立していった結果、
    難波
    長柄豊碕宮前夜の段階の「
    難波
    屯倉」は、上町台地先端部やその周辺地域の統治、倉庫の収納および管理を中心に存続していた。「
    難波
    屯倉」の中枢部は
    難波
    長柄豊碕宮の中枢部と重複する位置に存在していたとみられる。そのため、
    難波
    長柄豊碕宮の造営は「
    難波
    屯倉」の諸施設の解体・撤去すなわちミヤケとしての停廃によって進行した。これは、大化改新によるミヤケの廃止を具体的に示す事例である。
  • ―難波津および難波京の再検討―
    佐藤 隆
    大阪歴史博物館研究紀要
    2019年 17 巻 7-24
    発行日: 2019年
    公開日: 2020/10/25
    研究報告書・技術報告書 フリー
    本論では古代
    難波
    地域で行なわれた開発について、以下に挙げるふたつの主題を中心に検討して新たな考え方を示した。そのひとつめは
    難波
    津に関することである。5 世紀に始まる
    難波
    地域の開発において、上町台地やその周辺にはさまざまな施設や倉庫群、手工業の工房などがおかれ、都市的な様相をもち、
    難波
    遷都へつながっていく。
    難波
    津はこう した
    難波
    地域の繁栄を外交や流通の拠点として支えた。本論では初期の
    難波
    津の位置推定に関わる考古資料を再整理して、新たな評価を行なった。ふたつめは
    難波
    京に関することである。
    難波
    遷都の後、
    難波
    京の地割が成立する時期は天武朝( 7 世紀第4 四半期)とこれまで考えられてきた。それに対して、本論では7 世紀第3 四半期に遡る可能性を指摘するとともに、遷都前に見られた都市化の影響を受けながらさまざまなかたちの開発によって地割が形成され、それらが中世につながっていく流れを考察した。
  • 近藤 久次郎
    氣象集誌. 第1輯
    1903年 22 巻 8 号 252-258
    発行日: 1903/08/28
    公開日: 2009/02/05
    ジャーナル フリー
  • 難波宮・京の“副都説”を問い直す
    佐藤 隆
    大阪歴史博物館研究紀要
    2023年 21 巻 1-18
    発行日: 2023年
    公開日: 2023/06/03
    研究報告書・技術報告書 フリー
    筆者は近年に行なった
    難波宮や推定難波
    京域に関する検討の成果をもとに、大川南岸と四天王寺周辺とにおける遺構・遺物の二極集中をふまえ、前者の地区でその分布が時代とともに西へ拡大することや、さらに北の旧中津川流域や、三国川など北摂山系からの河川流域まで開発が進んでいることを発掘調査成果から示した。奈良時代後半以降の
    難波
    での賑わいが上町台地の宮殿周辺からすでに大川南岸に移っているという観点から、関連する史料を参考にしつつ、
    難波
    津や摂津国府の位置推定などを検討した。少なくとも奈良時代には起 源を遡ることができる、
    難波
    での重要な祭祀儀礼である八十島祭や斎王の解除儀礼が、形は変化しつつも王権の祭祀として存続していたことからも、古代の
    難波
    は常に海を意識して発展してきたことがわかる。そうした理解をもとにして、
    難波
    宮・京が“副都”と位置づけられることへの疑問を呈した。
  • 推定京域および歴史的評価を中心に
    佐藤 隆
    大阪歴史博物館研究紀要
    2021年 19 巻 37-52
    発行日: 2021年
    公開日: 2022/03/05
    研究報告書・技術報告書 フリー
    本稿は、2019年に筆者が発表した論文のふたつの主題である
    難波津と難波
    京のうち、後者の
    難波
    京について、さらに検討を加えたものである。特に、京域に含めるかどうか見解の分かれる大川南岸一帯の地区について、現在得られている発掘調査の成果を見直し、この地区がほかの地区よりも古い時期に開発された歴史的特徴に着目して、あらためて条坊として位置づける評価を行なった。この地区のみ、従来の説である900尺を基準とする地割ではなかった可能性を提示している。  近年、史料からの検討によって後期
    難波宮や同時期の難波
    地域のイメージに見直しを迫る重要な見解が提出されている。本稿で明らかにした考古資料からみた推定
    難波
    京域の実態は、こうした研究成果との比較検討が可能な内容であることを示した。
  • 辻 宣利
    日本文学
    1957年 6 巻 7 号 568-569
    発行日: 1957/08/01
    公開日: 2017/08/01
    ジャーナル フリー
  • *平山 弘, 山口 晴子
    日本地理学会発表要旨集
    2020年 2020s 巻 314
    発行日: 2020年
    公開日: 2020/03/30
    会議録・要旨集 フリー

    大阪府松原市で生産されている「

    難波
    葱」は「なにわの伝統野菜」として18番組目に設定されたものである。これは概ね100年以上前から大阪府内で生産され、苗・種子等の来歴の明確性と大阪独自の品目・品種、栽培に関する苗・種子等の楽坊可能な野菜であることが認証基準となっている。また、
    難波
    葱は大阪産(おおさかもん)であり、平成29年6月にはLa Matsubara まつばらブランドに第1期として認定されたことで、より強固で深化したブランド価値の創造を展開していることになろう。本報告では
    難波
    葱の歴史、概要に触れた上で、どのようにブランド化に向けた取組みをおこなったのかについて、明らかにすることになる。

  • The Japanese Journal of Antibiotics
    1995年 48 巻 1 号 162-
    発行日: 1995年
    公開日: 2013/05/17
    ジャーナル フリー
    Vol. 47 (1994) No. 9 p. 1146
    修正箇所:著者名
    修正内容:
    (誤) 難破煌治
    (正)
    難波
    煌治
  • 栄原 永遠男
    大阪歴史博物館研究紀要
    2016年 14 巻 1-14
    発行日: 2016年
    公開日: 2022/05/21
    研究報告書・技術報告書 フリー
    前期・後期
    難波
    宮の造営には膨大な資材が使われたはずであるが、その実態はほとんどわかっていない。材木についても、どの地域のものが使用されたのかという点については、先行研究がない。本稿では、
    難波
    宮造営に特徴的に使用されたコウヤマキに注目することにより、播磨国や西摂地域の材木が使用された可能性があることを示した。この地域の大河川を筏で運ばれた材木は、海洋筏によって
    難波
    まで運漕され、
    難波
    宮の造営その他に使われるとともに、淀川をさかのぼらせて、平城京や平安京およびその周辺で使用された。播磨国や西摂地域からの材木の流通を新たに考慮することにより、それが集散する
    難波
    地域の経済的位置・都市的機能を再検討する必要が生じる。
  • 若林 徹, 小島 一成, 長江 貞彦
    図学研究
    1999年 33 巻 Supplement 号 91-96
    発行日: 1999年
    公開日: 2010/08/25
    ジャーナル フリー
    近年, デジタル技術の進歩に伴い歴史的な無形文化財を再現し保存するデジタルアーカイブ構想が進められている.従来のデジタルアーカイブは, 現存する文化資産を保存・記録することがほとんどである.この「灘波の京と宮」などのような現存しない文化資産においては, いまだ手がつけられていないのが現状である.このような現存しない文化資産は, 資料をもとにある程度の人間の指示と推定が必要である.また, 小・中・高校のインターネットの整備にあたり教育の分野でもWeb上での教育を目的とするコンテンツの必要性が高まってきている.そこで, 本研究では大阪の古代の都であった「
    難波
    京と宮」をVRML (Virtural Reality Modeling Language) を用いて画像データベースの構築, また, HTML (Hyper Text Markup Language) またはXML (Extensible Markup Language) を用いてWeb上で教育を目的とするコンテンツの制作を試みた.この画像データベースとは, 大化の改新 (大化元年・645) 後に
    難波の地で構築された難波
    の宮遺構に対するVR博物館 (バーチュアルミュジアム) を創出するものである.この画像データベースと
    難波
    宮の時代背景と人物・歴史などを利用することで教育的なコンテンツの制作に可能性が高まり, Web上での情報化した文化財について学ぶことができ, その時代背景と人物像を把握することができることで一般化の利用の可能性を高めることができた.
  • 瀧川 政二郎
    社会経済史学
    1961年 26 巻 4.5 号 127-147
    発行日: 1961/03/25
    公開日: 2017/12/26
    ジャーナル オープンアクセス
  • 栄原 永遠男
    大阪歴史博物館研究紀要
    2015年 13 巻 1-9
    発行日: 2015年
    公開日: 2022/05/28
    研究報告書・技術報告書 フリー
    聖武天皇は、神亀₃年に
    難波
    宮に行幸し、藤原宇合を知造
    難波
    宮事に任命し、
    難波
    宮の造営に乗りだした。しかし、聖武天皇は、この行幸の前に、播磨国の印南野に行幸し、そののち
    難波
    宮にまわっている。この連続する二つの行幸には関連があるとみるべきである。聖武天皇の即位初期の行幸は、いずれも自らの皇位の正当性を明示する場所を目的地としているので、印南野行幸も同様に考えることができる。印南野にはかつて中大兄皇子が行き、祥瑞である豊旗雲を見ている。瑞雲の著名な例として、壬申の乱のさなか名張で大海人皇子が見たものがある。聖武天皇は、この両方を知っていたはずであるが、そのうち印南野に行幸したのは、その地が、節日や鎮魂祭・大嘗祭などに供される柏の採取地であったからである。印南野の柏がこれらの王権にかかわる祭祀に使用されるのは、かつてこの地の豪族と天皇家との間に婚姻関係があり、贄が貢納されていた伝統による。聖武天皇は、祥瑞を見るために天皇家とゆかりの深い印南野に行幸し、天智・天武天皇の後継者たることを自他ともに示した上で
    難波
    宮に行幸し、その皇位の正当性を象徴する宮として
    難波
    宮の造営を命じたのである。
  • 中野 生清, 武富 秀久
    日本泌尿器病學會雜誌
    1918年 6 巻 4 号 34-47
    発行日: 1918年
    公開日: 2010/07/22
    ジャーナル フリー
  • 日本エネルギー学会誌
    2021年 100 巻 8 号 GEJCREN_1-
    発行日: 2021/08/20
    公開日: 2021/08/31
    ジャーナル フリー

    常設編集委員会に加え,次の方々にゲストエディタとしてご協力いただいた。 井上修平(広島大学),澤山茂樹(京都大学),野村信福(愛媛大学),

    難波
    慎一(広島大学)

  • 科学技術振興事業団
    JSTニュース
    2001年 2001 巻 61 号 13
    発行日: 2001年
    公開日: 2020/05/29
    ジャーナル フリー
  • 工業教育
    1975年 22 巻 2 号 2_3-4
    発行日: 1975/04/10
    公開日: 2023/11/21
    ジャーナル フリー
  • ヴヰナス
    1930年 1 巻 6 号 233-
    発行日: 1930/02/25
    公開日: 2018/01/31
    ジャーナル フリー
  • 三田村 宗樹, 橋本 真由子
    第四紀研究
    2004年 43 巻 4 号 253-264
    発行日: 2004/08/01
    公開日: 2009/08/21
    ジャーナル フリー
    大阪平野における最終氷期の堆積物とされる天満層の分布について,地盤データベースを用いて再検討を行った.その結果,平野地下の埋没谷を充填する礫層の存在が明らかになった.この埋没谷は,低位段丘堆積層・中位段丘堆積層相当の地層を下刻して,淀川・猪名川・第二寝屋川(旧大和川)などに沿って,その地下に存在する.埋没谷を充填する礫層は,明らかに低位・中位段丘堆積層相当層とその分布を異にしている.従来得られている14C年代値を考慮すると,この礫層は最終氷期最寒冷期以降で1万年前までの堆積物とみなされ,
    難波
    累層の基底礫層として位置づけられる.さらに,この礫層を
    難波
    累層に含めて,
    難波
    累層の基底面分布から2万年前ごろの古地形の再現を試みた結果,上町断層東側の傾動ブロックの横構造地形を切って,先行河川として古大和川・古淀川が発達していたことが判明した.
  • 村元 健一
    大阪歴史博物館研究紀要
    2015年 13 巻 11-24
    発行日: 2015年
    公開日: 2022/05/28
    研究報告書・技術報告書 フリー
    孝徳朝
    難波長柄豊碕宮と考えられる前期難波
    宮は、調査の進展により、宮内の状況はほぼ明らかとなった。一方、起伏に富んだ上町台地上に築かれたこともあり、周辺域の様子はあまり明らかでない。課題として、京の存在、朱雀大路の有無ということが挙げられるが、いずれの問題も宮城の南方域の実態解明という点に集約される。本稿では7世紀の倭、中国の都城のあり方を検討し、この問題を考察する。結論として、7世紀半ばの段階で
    難波
    に長大な朱雀大路をつくる必然性はなく、京域については自然地形による制約から宮城の西南方、上町台地脊梁部に開発が集中し、東南方はあまり開発が進まず、宮城南方は中軸線を挟んで東西不均衡な景観であったことを指摘した。ただし、台地上の区画は自然地形を無視して正方位を意識しており、新たな王都の誕生を予感させるものであった。
  • [記載なし]
    日本船舶海洋工学会誌 KANRIN(咸臨)
    2010年 33 巻 77-
    発行日: 2010/11/10
    公開日: 2018/03/30
    解説誌・一般情報誌 フリー
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