1.はじめに
霧ヶ峰
高原は、近世以降山麓集落の入会地となり、厩肥を生産するため、毎年野火が付けられ、干草など馬の飼料が採取されてきた。かつては2000haもの半自然草原が広がっていたが、戦後、観光開発がすすみ火入れも次第に行われなくなると、森林化がすすみ、草原景観は減少してきた。しかし現在も1000ha以上の草原景観が残っており、地域の観光資源であるとともに、絶滅に瀕する植物や昆虫の生育地となっている。最近、
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高原の火入れによる草原の維持は縄文時代に遡ることが明らかにされ、その目的が議論されている。現在、草原景観を維持するために、地域住民だけでなく他の団体によっても様々な取り組みが行われているが、改めて草の利用や火入れが地域住民によってどのように実施されてきたのかについて把握することが求められている。
茅野市北山柏原区は、八ヶ岳西麓の山浦地方に位置する。白樺湖と
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高原の一部を含む809haの広大な林野を有し、その管理と経営を柏原財産区が行っている。当区では1960年頃まで主な肥料として厩肥が利用され、当財産区は
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高原の地権者の中で最も遅い2018年まで火入れを行っていた。
本発表では、住民への聴き取り、2018年4月に行われた火入れの観察、柏原財産区が有する資料に基づき、当地区における1955年頃の生業と馬飼育、住民の干草採り、柏原財産区の火入れの歴史と2018年の火入れの実態について報告する。
2.1955年頃の生業と馬飼育
当時、稲作と養蚕が生業の中心で、副業として炭焼きや運搬業を行う家もあった。水田の主な肥料は厩肥で、そのため馬がほとんどの家で飼育されていた。馬は農耕用、運搬用にも用いられていた。馬屋は母屋の一角にあり、馬は家族の一員として大切にされていた。馬の飼料は初夏〜秋は青草が主で、水掛採草地など集落に比較的近い場所から採取された。冬は「ハギ」といわれる干草と稲藁が主な飼料であった。一冬に馬1頭当たり20〜30駄(1駄=6束)のハギが必要であり、それが
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高原の草地から採取されていた。採取された干草は家によってハギ屋や「厨子」といわれる天井裏に保管された。馬屋には稲藁が敷かれ、厩肥が生産された。
3.1955年頃の住民の干草採り
干草の採取は「ハギ刈り」といわれ、9月1日の山の口開けから月末まで家族総出で行われた。草の種類はススキ、ヤマハギ、ヨモギ等でイネ科以外の広葉草本が多く、草丈は50㎝程度であった。それを柄が80㎝、刃が27㎝の草刈り鎌で刈った。斜面の下から等高線に沿って草を刈り上げてすすみ、ある程度刈ると、Uターンしその上の草を刈り下げながらすすんだ。一度に刈る幅は約80㎝程であった。それを2〜3日乾燥させたものを足と鎌を用い幅80㎝に束ね約150㎝の縄で縛り(1束)、それを6束馬に付けて家に運んだ。ハギには薬草的な役割もあると考えられていた。
4.柏原財産区による火入れの歴史と2018年の火入れ
柏原財産区の火入れの起源は不明であるが、昭和初期より区民総出で行われるようになった。当時は草地を西山と東山に分け4月中旬から下旬の2日間で行われていたが、1960年以降干草の需要がなくなると1963年に中止された。1965年以降西山の一部で観光資源としての草地景観を守るために再開され、それ以降ほとんど毎年行われてきた。延焼や事故を防ぐため、風が弱い午前10時までに行うこと、参加者は住民に限ること等が徹底されてきたという。しかし、2019年以降、住民の高齢化により火入れはついに廃止された。
2018年の火入れは、42haの草地を対象に、4月22日7時から住民113名によって行われた。草地の下部はビーナスライン、上部等は森林となっており、森林との境界には約3m幅の石を敷いた防火帯が設置されていた。住民は12組(1組7〜8名)に分けられ、防火帯に沿って配置された。各組では、まず担当箇所の防火帯を焼き、次にその下部10mを焼く境焼きを行い、さらに半分近く焼き下した後、全員の下山を確認し、下から一気に火を付けた。防火帯では火が周囲に広がらないようにイチイ等の常緑樹で消火しながら慎重に火が付けられた。草地全体が見渡せる場所に本部が設けられ、火入れ開始と終了の指示が日の丸の旗を用いてなされた。火入れの前には、境焼きをする場所の草を刈り、刈った草を下に下ろす境刈りも業者に委託し行われていた。
5.今後の課題
柏原地区では、
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高原で良質な干草を採取するための、また延焼や事故を防ぎながら広大な草地を維持するための様々な知恵や工夫が継承されていた。
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高原の草地景観を保全するには、火入れの再開が望まれ、伝統的な草地利用を観光資源として活用することも期待されている。今後はこうした伝統知を後世に継承する方策についても検討する必要がある。
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